都立武蔵文芸部 デジタル部誌サイト

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暗闇

太陽が昇る。
目覚ましを止める。
起きる。歯を磨いて顔を洗う。5枚切りの食パンをオーブントースターに突っ込む。目玉焼きを作る。黄身が思ったより硬くなった。目玉焼きトーストを黙々と食べた後、制服を着て登校する。
なけなしのバイト代で買ったスポーティな自転車で、自動車道を飛ぶように走る。いつもの信号で友達と落ち合う。
登校したらやる気なく授業を受ける。あの子に一瞥を投げたら目が合って、慌てて黒板に目を引き戻す。
放課後をむかえる。友達と公園に寄る。友達が飲み物を買いに行く。
そのとき、本を読んでいるあの子を見つけた。木陰の下の木製のベンチに一人で座っている。
気づかないふりをした。でも。彼女の手にする文庫本に木漏れ日が揺れている。
その頭上に青々と歯を生い茂らせるのは、この公園のシンボルツリーでもある桜だ。
そのうち友達は戻ってきて、その場を離れざるを得なかった。
家に帰るとすぐ課題に取りかかる。必需性がないのならとっくの昔にテレビでも見ているのだろうが、そういうわけにもいかない。
夕飯を食べ、風呂に入り、歯を磨き、スマホのアラームを確認して寝る。
繰り返される日々。
「どうせお前の定期考査の学年順位はワースト一桁なんだから、課題やんなくたって成績はさほど変わらんだろ」。アイツの言葉がよみがえる。
─くそ、藤木のやつ。今に見てろよ。
─あ、そういえば明日俺日直だ。めんどくさ。
─でもその代わり、代数の授業がある。頑張れ俺!!
そのうち、モヤモヤとした白い霧がだんだん脳の中を漂い始めた。おかげで、頭の中に映像を映し出すのが難しくなってきた。未だに思考の片隅に残っているのは、ふかふかとしたベッドの心地よさと、今日完成させた課題の出来の良さに対する満足感のみだ。
うとうとし始めてから数分後のことだ。積もりに積もった眠気をかき分け、意識の中に何らかの違和感が割り込んできた。

─今眠いんだよ…
無意識の境界へと違和感を押し出そうとするが、それは強くなる一方だ。
一度は立ち込めた霧もさすがに晴れてしまい、いやいやながら目を開けた。
一瞬、目が見えなくなったのかと思った。辺り一面が黒一色で塗りつぶされているのだ。
これはどうしたことかと目を凝らしたが、いくら目を細めても自分自身の体以外に見えるものは何一つない。
そして、違和感の正体を突き止めた。仰向けの体を支えるのはベッドではなく空気、つまり浮いているのだ。体の向きを変えようとしてもうまくいかず、ただ暗闇の思うがままに落ちていくだけ。…そう、ゆっくりと落下している。
─冷静に。そうだ。感情を抑えるんだ。
自分にそう言い聞かせた。ついこの前に完読したミステリー小説の登場人物が、そうすることで危機を乗り切ったのだ。
とはいえ、この謎すぎる状況の打開策は全く思い浮かばない。無意味だとは知りつつもとりあえず手足をばたつかせてみたが、当然ながら何の変化もない。
そうしている間に、心なしか落下スピードが速くなっているようだ。「心なしか」とは言うが、その心の片隅では、それが自分を落ち着かせるためのスカスカな隠れみのだとわかっている。
たとえマッハを超えるスピードでこの底なしの空間に落ちていったとしても、そこに着地点があるのかどうかすらわからない。
一秒後に何が起きるか、だれが予想できるだろう?落下スピードがみじんもゆずることなく加速していく中であれこれと思考を巡らせるが、なす術のない俺はそのまま落ちていった。
気が付いた途端、まぶたの向こうで強烈な閃光がきらめいているのがわかった。ついさっきまでいたように感じられる暗闇の世界とはまるで正反対だ。どれほどの間気を失っていたのだろう。
まだ目を開かずに、光の発信源に背を向けるように体を転がした。体の下の何かは、フワフワとモフモフとヒンヤリを掛け合わせたような、不思議な肌触りだ。
─あれ…ちゃんと何かの上に載っているし、それに、体にも自由がある。
そよ風に揺れる前髪がくすぐったくなった。横たわったまま右手で髪をかき分け、そして
目を開けた。
今度は、冷静でいようなどとしている場合ではなかった。
俺を乗せている白い何かは、数十センチ先で途切れていた。その下を垣間見ると、はるか下に立ち並ぶ建物と道路が見えた。直接的に言って「信じられない」光景に混乱した。
噓だろ!?ということは、今身をゆだねているのも雲だ。ここは上空に浮かぶ雲の上。どうしてしまったのか、俺はいつの間にか空でも飛んでしまったらしい。
手を見るが、大丈夫。これは人間の手だ。衝動的に背中を探り、見知らぬ翼が確かにくっついていないことを確かめた。
全く状況が理解できない。思考回路がショートしてしまったせいで何かを考えることができなかった。
地平線をぼーっと見つめながら手足のけいれんがおさまるのを待つと、注意深く雲のへり近くに手をついて下を覗き込んだ。よくそんなことができたものだと自分でそう思った。
毛糸ほどの大通りの近くを、針でつついた穴よりもさらに小さな黒い点がうごめいている。目に見えるか見えないかのぎりぎりだ。建物は、ものすごく小さな積み木を並べたみたいだ。
ふとして、俺は驚いた。

並んでいる建物どれもこれも、見覚えがある。そうだ、ほとんど全部見たことがある!あそこにあるのが学校で、あれはいつもの公園。ということは…。道をたどると、やっぱり俺の家があった。
目の端に動くものをとらえたのは、その時だった。サッと振り向くと、正面をこちらに向けてやってくる飛行機が見えた。
足がすくんだ。動けない。飛行機は見る見るうちにさらに大きくなる。
だが、俺は救われたのだった。
雲のへりにかけていた手が滑り、前につんのめって雲から落ちた。迫りくる飛行機から逃げなければならないと知りつつも、自分の意志で実行するのは不可能だっただろう。
声にならない悲鳴を上げながら、回転する景色の中に、冷たい鋼鉄の機体の片脇にかき消される雲を見た。そして次に町が近づいてくる。
毛糸だった大通りは指になった。人の頭はシャー芯の太さ。積み木はレンガに変わった。
やがて、着地点がはっきりしてきた。…公園だ。
公園の中央広場。中央広場の桜の木付近。桜の木の上。そして木の上の…
バスッ。
音を立てて落ちたのは、木に引っかかったプラスチック製の凧の上だった。
あっという間だった。なんて幸運なのだろう。節々が痛いが、おかげで枝に体中を引き裂かれずに済んだのだ。
─凧の上?
おかしい。おかしいおかしい。凧って普通、体よりも小さいだろ。何だこれは。逆「ジャックと豆の木」か?
確実にこれは凧だ。イカの頭みたいな三角形をした凧。俺が小さくなったのか、それともこの世界がデカいのか。
まあとりあえず成り行きに任せておけば何とかなるだろう。今はいろいろありすぎて、それどころじゃない。
─アッッブネー…。
苦笑いをしながら思った。
─装備なしのスカイダイビングだぜ…
体をもぞもぞと動かして、けばけばしいショッキングピンクの凧の上にあぐらをかいた。
次なる問題は、どうやってここから降りるかだ。
「ママぁ、たっくんの、たっくんのたこ、きにひっかかっちゃったよ?」下のほうから、
小さな男の子の声が聞こえる。指さして、こちらを見上げている。
─たっくんの凧、か…。
足と足の間から、ビニール凧を見つめた。風にあおられて枝がしなると、凧がカサカサと音を立てる。木の葉も一緒にさわさわと音を立てる。空気を肺に大きく吸い込む。酸素に溶け込んでいたセミの声が、体の隅々に染み渡る。
─よし、ひらめいたゼ。
凧から慎重に下りて、少し太い枝にちょうど良いくぼみを見つけ、そこにバランスよく立った。凧を持ち上げてみると、上に座っているよりも一回り大きく見える。
凧の形を支えている棒の部分をしっかりと握った。予期せぬタイミングで吹き飛ばされないよう、凧を風向きに対して平行にして待った。
時々そよそよと弱い風が吹く。思ったよりも枝の縦揺れが激しい。何度か振り落とされそうになったが、何とか踏みとどまった。
その時はきた。
─今だ!
平行から垂直へ。10分に一度の強風を、凧はその大きな体に受け止めた。上へ跳ね上がった枝の力も加担して、体は大きく飛び上がった。思っていたより自分の体重が軽く、このまま地面に足がつくことはないのではないかと少し不安になった。が、凧は風に乗ってゆっくりと降下した。飛行機になったか、背中に翼を授かったみたいだ。
ほんの一瞬のフライトは終わりをつげ、地面に軟着陸した。
すぐさま凧を投げ捨て、急いで茂みへと走った。何やらおかしな物体が空から降ってきたことがバレないようにと祈りながら。
時々大根みたいな足をよけながら、やっとのことで植え込みにたどり着いた。さっとその裏に隠れ、葉と葉の間から人につけられていないか伺った。各々が、何事もなかったかのように歩き去っていく。
「ママぁ、みて。たっくんのたこ!」
─やれやれ。あんな状況でよく見つからなかったな。
その時、何かが地面を踏みしめる音がして俺は振り返った。
薄暗い木陰の中、猫が寝転がっている。
─しめた。
どちらにしろ、ここを出なければならないのだ。
足音を立てないよう、忍び足でゆっくり近づく。気づかれないよう、背中のほうへ遠回りをした。呼吸に合わせて、白い毛並みが上下に波打つ…
猫の背中に飛びついた。猫は「ニ゙ャッ」と鳴いて跳ね起き、途端に猛スピードで駆け出した。猫が雑草をかき分けると、いろいろな虫が逃げていった。バッタ、アリ、クモ、チョウ、毛虫…毛虫!?
猫はそのうち飛び上がり、木と木の間で三角飛びをして背の高いブロック塀の上に着地した。かと思えば今度は飛び降り、首がガクンと揺れた。今はつかまっているだけで精いっぱいだ。
次のステージは住宅街だ。どれも垂直に交わる単調な道を、猫は器用にも次々と曲がって行った。時にはブロック塀に飛び乗ったり飛び降りたりした──そのたびに俺は頭を猫の背中に打ち付けた。一時は出合頭で自転車にひかれそうになり、のどから心臓が飛び出すかと思ったほどだ。
やがて猫は人の多い大通り沿いに出た。俺は猫の毛の束を今までよりさらに強く握りしめた。道行く人の中には「キャッ」っと悲鳴を上げる人もいた。もしかしたらその原因は猫ではないかもしれないが。
大通りの信号が青になったのが見えた。猫はなおも人にぶつかりそうになりながら走っていたが、何を思ったのか減速し始めた。
─いいぞ、降りるなら今がチャンスだ。
そう感じた次の瞬間、猫は急カーブして大通りに飛び出した。
「おい!」俺は思わず叫んだ。それに重ねるようにしてトラックがクラクションを鳴らす。
─死ぬ!!
その予感が外れて本当に良かった。猫はすんでのところで巨大で真っ黒なタイヤから逃れた。
猫がガードレールをすり抜けるや否や、しがみつくのをやめた。俺は歩道に転がり、猫はそのままどこかに走り去っていった。
急いで起き上がり、踏みつぶされないうちに道の端によって座り込んだ。体の節々が抗議の悲鳴を上げているが、それ以上に腕の握力が麻痺している。
─あんな狂ったもんに──
「乗ってられるかっての」俺はつぶやいた。
信号が点滅し、赤になった。2台の自転車が風を取り巻いて走ってくると、俺の前で止まった。「ほらなぁ。わたれなかっただろ」…ん?「いや、お前を待つために手加減してなきゃわたれたね」聞きなれた声がそう断言する。並んで信号待ちをする2台の自転車の影は、まだ帰ってきたばかりの太陽の前に長く伸びている。
「お前、いつも漕ぐの遅いんだよな。チャリがもったいねぇよ」その声は。
「藤木…」口の中でもごもご言った。
「わざわざ急ぐ必要もないんだから、ゆっくり行きゃいいじゃん」
そして反論しているのは、自分だった。会話にさえ覚えがあった。
もう一人の自分を前に、俺は目を釘付けにせざるを得なかった。今までがすでにあり得ないことだらけだったからか、思考にやけに集中できた。
─どうなってるんだ?これは夢か?夢じゃなかったらこれは何だ?過去のことなのか?俺がおかしいのか?それとも周りの世界が?
その代わり、心境は崩壊寸前だった。
「お、もうちょっとで青だぞ」藤木の声に、はっと我に帰った。確か今の俺たちは学校に向かってるはずだ。自転車につかまれば、安全な場所にひとまず移動できるかもしれない。移動中だって、気のどうかした猫に乗るよりかは少なくともマシに違いない。
俺が乗っているほうの自転車に駆け寄った。動き出した自転車を必死に追いかけ、何とかスタンドの部分にしがみついた。
途端に風が吹きつけた。猫のように毛が生えていないから、つかまりにくい。
自転車がガタっとはねた。油断していたせいで振り落とされそうになり、全身で鉄の棒にはりついた。
1年後──実際には5分後なのだが──自転車はようやく目的地に到着した。巨人のごとき俺のスラックスの裾に揺られながら、玄関口まで引っ付き虫のようについていった。
同じように校舎へと歩く見知った顔を順に眺めた。
─やっぱりおかしいよな。こんなに人目が多いのに、まだ見つからないなんて。
俺が友達に話しかけられて足止めを食らっている間──やはりこのシーンにも覚えがあった
──スラックス、シャツの順に自分の体を這い上った。それでも他人に見つかることはない。
ついに肩の上に立った。「俺、先に行ってるからな」という藤木の声に、ビクッとして振り返る。俺は肩の上にいるというのに、当の本人でさえ気づきもしない。きっと重さなんかも感じないんだ。
─じゃあ、猫はどうして?
俺は少し考えた。詳細は分からないが、「ああ、俺が毛を引っ張ったりしたからだ」と勝手に思いつき、落とし前を付けた。
俺がまた歩き出し、ぐわんとゆれた。「おっと、」あれほどのことの後だから、とっさに首につかまることなどたやすい。声を出しても気づく気配はない。
目線の位置はほぼ通常と同じ高さに戻った。自分は何もしなくたって、こうして方にのってさえいればもう一人の俺が歩いて、しゃべる。
─いいじゃないか…きょう一日はこうしてしのごう。
チャイムが鳴ると、恒例の授業が始まる。昨日も聞いた同じ話を、復習のつもりで聞き流す。窓枠の中に雲が現れては消えてゆくのを眺めながら…。
大きなほうの俺が静かに首を回した。横目に探っているのは、すっきりと見やすそうなノートにメモを取るあの子の姿。数秒の間、その姿に見入っていた。その子はとったメモを吹き出しで囲むと、こちらを向いた。ただでさえつかまりにくい肩を揺らして、何事もなかったかのように黒板に向き直る。あの子はというと、ほんの少し笑みを浮かべながら黒板の文字を映し始めたのだった。
昼食の時間になった。俺は机の上で、もう1人の俺が弁当をほどくのを待ち構えていた。

この2時間というもの、どんなにこの瞬間を待ち焦がれたものか。何しろ今日は朝から何一つ食べていないし、その割には、激しすぎるというほど体を動かしたのだから。
コンビニのバターロールをちぎると、弁当箱の後ろに隠れて食べ始めた。なぜなら、もしかすると宙に浮くパンくずが見えるかもしれないからだ。
2人目の俺がまたパンを置くのを待って、またパンをちぎった。
─アッ、そうか!だから昨日、やけにパンが小さく感じたんだ!
放課後。自転車にまたがりながら、「なあ、公園行こうぜ」と藤木。同じ小説を連続で2回読むみたいに、昨日をもう一度再生するようだ。「おう」
いつも通り人の少ない北口から、細い並木道へ自転車を押していく。
「やっぱいいよな、ここ」俺ののどが響いた。木が作る屋根の間から、キラキラと陽光がのぞく。「中央広場行くか」
「それ以外ないし」
広場に出ると木のアーチは途切れ、直射日光がじりじりと肌を焼いた。「相変わらず暑いよな、まったく」
「俺飲み物買ってくるよ」
「あざす」
藤木は自販機へと歩いて行った。大きな俺は、シンボルツリーへと自転車をおそうとした。
「あ」あの子がいた。少し涼しい風が吹いた。大きな俺は、本を読むあの子を無表情に見つめている。
─告れ!告れよ!
念じても、その目はひたと一点を見続けている。
─おい、今しかないぞ…
「なあ」振り返ると、藤木が反対の肩をたたいていた。もしたたいたのがこっちの肩だったら、危ないところだった。「なに見てんだ」
「ああ、なんでも」一緒に俺も答えてしまった。「休憩室で飲もうぜ、暑いよ」藤木に言われ、大きな俺は自転車の向きを変えた。
家に帰れば、待ち受けるのは課題だ。俺が課題をやり進めるのを見守り、間違った時はじた。もっとも、何度かしかそれには気づかないのだが。
夕飯も昼食と同じように少しくすねて食べ、風呂の片隅でははねてくる水を浴びた。
ベッドに大きな俺が寝転ぶと、俺もその枕元に身を横たえた。こんな日が何日続くのか知らないが、今日のようにやっていくよりほかない。俺に背を向けて幸せそうにまどろむ俺の姿がうらやましかった。
太陽が昇る。
目覚ましを止める。
起きる。歯を磨いて顔を洗う。
鏡に映る自分の顔を見た。ふと肩のことが気になった。特に何も変わったことはないが、なんだか世界が小さく見える。それに、昨日の夜は少し長かったような気がする…。まあ、いいか。
5枚切りの食パンをオーブントースターに突っ込む。目玉焼きを作る。目玉焼きトーストを黙々と食べた後、制服を着て登校する。

恋を絶対に成就させる方法、教えます。

季節は夏。僕の恋は一つの終わりを迎えた。

夏休み前の一週間というのは大きなテストが終わり、授業もあまり進まなくなって、来たる夏休みに胸を弾ませ浮ついた気分になる。そして充実した夏休みを送ろうと無駄な妄想をし目標を立てようとする。あの時の告白も恋人を作って夏休みに濃密な思い出を作ろうと思ってしたものだ。

24日、僕は咲良さんに自分の思いをぶつけた。咲良さんはクラスの中でもそこまで目立つような存在ではない。この学校という場所の中では埋もれて消えてしまいそうな感じだ。けれども僕の目に彼女はそうは映らなかった。いわば一目惚れだ。光を宿してるのか怪しい瞳、黒魔術よりも真っ黒な黒髪、そんな黒とは対照的な不健康的な白い肌。それらすべてが美しく見えた。僕はそんな彼女のそばにいたい。そんな気持ちが彼女と出会ってからずっとあった。そしてこの夏休み直前のフリータイムに今のところ今年最大の大勝負を決行したのである。

結果はさっき書いたとおりだ。私は君と一緒に夏休みを過ごしたいと微塵と思っていないんだ。残念だが他をあたってくれないか。

なかなかにストレートな返答だった。まぁそれも彼女らしくていいと思えた。けれども失恋のショックというのは大きかった。初めの五分はその場から動くことすらできなかった。涙も出なかった。半日でプランを考えて決行したのだから失敗するのも仕方がないといえば仕方がないのだが。

中の下くらいの成績表が入ったカバンを持ちとぼとぼと帰宅した。こんな時は音楽でも聴いて傷心を癒すしかない。そう思って自分のお気に入りのバンドの曲を流した。そのバンドはケツドラムスといってインディーズで活躍しているマイナーなバンドだ。トリッキーなバンド名の通り演奏もトリッキーで頭にお花畑が広がっているような歌詞とサイケデリックな演奏が脳みそを内側からむずむずさせようとしてくる。ヘタクソで不愉快なギターさえなければ世界を虜にできそうなくらい曲はとてもいいのだ。そんなケツドラムスは悲しくなった時にいつも聞くのである。悩み事もきっとどうにかなるそんな気持ちにさせてくれる。

そんな感じに部屋で一人感傷に浸っていると後ろから人の気配がした。最初は家族の誰かと思ったがよくよく考えたら今日は皆出払っていてこの時間はしばらく誰もいないはずである。とたんに僕は振り返るのが怖くなった。強盗か?それとも幽霊かなんかの類か?そんなことを考えていると後ろの怪しい気配の方から話しかけてきた。

「見事なフラれっぷりでしたね、君。」

僕は驚いてすぐ後ろを振り返った。なぜ声の主は僕が告白をして見事なまでにフラれたのを知っていたのだろうかあそこには僕と彼女しかいなかったはずである。まさか誰か覗いていてわざわざ家までつけてきてからかいに来たではないのだろうか。僕はそんな変質者の顔を確認せずにはいられなかった。

そこにいたのは薄汚い白衣を着たやせほそった目つきの悪い男だった。そしてそいつは僕に目を合わせてくるなりこう言った。

「もう一度告白しなおしたくありませんか?」

「その前に誰なんだお、お前は」

予想外に外見が怖かったのか僕の声は少し震えていた。

「私はそうだねぇ、面白い研究をしている科学者いや発明家といったほうがこっちではあってるのかもしれない。まぁそんな感じのジャンルの人だ。名前はハクシとよく呼ばれているよ。今日は実験がてら君にいいものを持ってきたのさ。たまたま外を歩いていたら無様にフラれている君を見つけてね、あまりにも可哀そうだから助けようと思ったんだ。善意にあふれたボランティアをするのさ」

何て胡散臭いやつだ。一文字一文字が胡散臭さにあふれている。とにかく胡散臭い。鼻栓をしても匂いが入ってくる。でもこのハクシとかいうやつの見た目は悪の組織にいるマッドサイエンティストのようで腕は良さそうに見えた。彼が持ってる良いものは本当にいいものなのかもしれない。僕は少しその話に乗ってみることにした。

「良いものってなんだ?」

「よくぞ聞いてくれた!それはねタイムマシンだよ。過去に戻ることしかできないけどね。これを使って告白をやりなおす。どうだい?」

それを聞いて僕は興奮しなかった。なんだそれはモテモテになる薬とかを期待していたのにタイムマシンとかものすごい非科学的なものを紹介してくるとは思わなかった。やっぱこいつは詐欺師だった。見た目がそれっぽいだけの詐欺師だった。そろそろ警察を呼ぼうかと手元のスマホの電源を付けた時、やつは言った。

「どうやら信じていないようだね。よし、じゃあ今から一回実践して見せよう!一回やって見せればいやでも私が信用に値する発明家というのが嫌でもわかるからね。」

そういってやつはじゃーんこれがタイムマシーンさ。とトランシーバーのような物に懐中時計をくっつけたまたもや胡散臭い機械を取り出した。ほんとにこれを信じていいのだろうか?

やってみればわかるものさ。そして彼はその機械につけられたボタンをポチポチ押した。数秒して、グリッチがかけられたように視界が歪んだ。そしてすぐに元に戻ったそこは何も変わらないいつも通りの部屋だった。けれどもものすごく体が痛かった。あの変質者に殴られたのかと思ったがやつはさっきから一歩も動いていなかった。

「これで過去に戻れたはずだ。外に出て誰かに聞いてみるといい。今日は17日になってるはずだよ」

本当にそうなのか僕は筋肉痛のような痛みを我慢して外へと向かった。そしてその辺を歩いていた買い物帰りのご婦人に今日の日付を聞いた。するとご婦人は今日は17日だと何のためらいもなく教えてくれた。そんな馬鹿な。僕はご婦人はあの変質者が用意したサクラなのかと思い、いろんな人に聞いて回った。友達にも電話したり直接会ったりなんなりして聞いた。けれども答えが変わることはなかった。

そろそろ日付を執拗に聞いてくる変質者として市民の皆さんに認識されそうになったところで怪しさを擬人化させた男が話しかけてきた。

「どうだい?本当に過去に戻れただろう?この機械を君に貸そう。ここの赤いボタンを押せばいつでも一週間前に戻れるさ。さぁこれを受け取って君は告白を成功させるんだ。応援してるよ」

そう言って男はどこかへと消えていった。

 

どうやらこれは紛れもない事実らしい。でもこれが現実ならばとてつもないチャンスだ。僕は告白が成功するまで何回もやり直すことができるのだ。そうと決まれば早速作戦を立てよう。

まずは相手を知ることから始めてみるのはどうだろう。今まで咲良さんとは会話はおろか挨拶すらしたこともない。何となく近寄ったらいけないという雰囲気をまとっていたからだ。でも告白が成功すればずっと一緒にいることになるのだ。今お近づきにならなければいつなるというのだ。軽い挨拶からでいいから声をかけてみよう。

こんな感じに第一回の作戦会議は幕を閉じた。

翌朝、いつもよりも軽い足取りで学校に行く。教室に入ると咲良さんは本を読んで自分の席に座っていた。黒いハードカバーのタイトルが認識できないような古い本を読んでいて彼女の妖しさをより一層深めていて少し興奮した。

「おはよう!咲良さん!」

自分史史上一番フランクでフレンドリーな挨拶をする。けれども肝心の咲良さんは無反応である。イヤホンでもしているのだろうかまったく声が聞こえていないようでもあった。これでもまだフランクさが足りないのだろうか。もう一度挨拶をしてみる。

「おっはー!咲良っち~!」

限りないフランクを見せつけてもやっぱり咲良さんは何も答えてくれない。真っ黒な眼はずっと本のほうに向いたまま動かない。

その後も何回もフレンドリーフランク挨拶を繰り返すも咲良さんが何か反応を示すことはなかった。

 

19日。昨日は全く友愛度が深まらなかったので真っ向面から攻めるのは諦め少し角度を変えて攻めることをした。どんなに相手が交流をする気がなくても必ず対話が生まれるイベントがある。それはハンカチ落としだ。大人数で円になるあのゲームじゃない。ハンカチというのは自然とポケットから落ちてしまうものである。それを見た人は必然的に「ハンカチ、落としましたよ」と接触を図ってくるのである。つまり咲良さんの前でハンカチを落とせば向こうが意図せずとも会話ができてしまうのである!これでまずは友達くらいのところまで行こうじゃないか。

さっそく廊下を歩く咲良さんを見つける。背筋がピンとして少し威圧感のある歩き方は思わず道を譲りそうになってしまうほどだ。けれどもそこにはとてつもない美しさが秘められているのである。素晴らしいものだ。

そしてすれ違いざま僕は咲良さんの目の前でハンカチを落とす。そしてそのまま落としたハンカチには目もくれず歩き続ける。そうすれば自然と咲良さんが話しかけてきてくれるはずが、二十分くらい歩いても一向に話しかけてくる気配がない。そろそろ学校を一周して元の場所に戻ろうとしたとき、一歩も動かずまるで地球が始まったころからそこにあったようなハンカチをこの目でとらえた。

おかしいな。もしかしたらハンカチに気付いてもらえなかったのかもしれない。もう一度、廊下を颯爽と歩く咲良さんの目の前でハンカチを落とす。そしてそのまま落としたハンカチには目をもくれず歩き続ける。そうすれば自然と咲良さんが話しかけてきてくれるはずが、二十分くらい歩いても一向に話しかけてくる気配がない。そろそろ学校を一周して元の場所に戻ろうとしたとき、一歩も動かずまるで地球が始まったころからそこにあったようなハンカチをこの目でとらえた。

おかしいな。もしかしたらハンカチに気付いてもらえなかったのかもしれない。もう一度、廊下を颯爽と歩く

そんなことを十数回続けたが結局咲良さんがハンカチに気付いてくれることはなかった。

 

20 フランクフラフラ挨拶大作戦、ハンカチポイポイ大作戦も失敗に終わってしまった僕の作戦とは何か?それすなわち一緒に日直ドキドキ大作戦である。この日は咲良さんと日直になっている日なのである。つまり日直の仕事内で起こる報連相で念願の咲良さんとの会話をすることができるのだ!なんて完璧な作戦なのだろうか。一回目の20日は咲良さんと関りが持てるってだけで心臓がバクバク言ってしまい、全く話すこともできなかった。けれども今回は攻めなければ四日後に迫る運命の告白の日に間に合わないのだ。やっぱりドキドキするハートを抑えながら咲良さんと一緒に仕事をこなす。黒板を消したり日誌を書いたりよくよく考えてみれば日直の仕事のような簡単なものに報連相なんて基本的に必要ないそこまで会話なんて生まれないのだ。完全なる計算ミスだ。完璧な作戦だったはずったのにどこで一体間違えたのだろうか。己の愚かさに嘆いて机に頭を打ち付けていると何と珍しいことに咲良さんが僕の席にやってきた。手には日直が日々の授業の様子や一日の総括を書く日誌を持っているそして蔑むかのような眼で僕を見て

「これ、残り書いといて」

と物静かな声でものすごく手短にそう言って僕に日誌を渡す。

僕は感動した。ついに咲良さんとの会話に成功したのだ。やっぱり僕の作戦は間違っていなかった。ついに僕は始めの一歩を踏み出したのである。待てよ、咲良さんから言葉をもらっても僕が言葉を返さなければ会話とは呼べないのではないのだろうか?これではいけないこのままでは始めの一歩が足を上げたままの片足立ち状態になってしまう。コンマ二秒で僕は思考し早速行動に移した。

「はい!喜んで!」

そう口にしようとしたがすでに咲良さんは自席に戻ってもくもくと本を読んでいた。僕の声に反応を一切示してくれなかった。結局僕は右足の着地点を失いしばらく片足立ちで過ごさなければいけなくなってしまった。

 

21 昨日は完全に僕の不注意で失敗してしまった。戒めのためにもけんけんで登校することにした。そして昨夜考えに考えた作戦を復習する。その名も相手の趣味に合わせてとりあえず会話の糸口を見つけよう大作戦、略してASATKIM大作戦。咲良さんはいっつも真っ黒なハードカバーの分厚い本を読んでいる。あれはおそらく黒魔術とかその辺の本なんだろう。だからきっと咲良さんは黒魔術とかそういうのが趣味なんだろう。なんて高尚な趣味なんだ。僕はどんどん咲良さんの虜になっていく。僕は今までの人生の中で黒魔術なんてたしなんだことがないのでネットで手に入れた付け焼刃の知識だけどきっと話せるはず。きっと。

教室に入るといつも通り咲良さんはとても凛々しく例の黒魔術書を読んでいた。その姿はしびれるほど美しかった。この美しさに近づいて良いものかと咲良さんに話しかけるのを少しためらうが勇気を出して声をかける。

「やぁ。咲良さん今日も素敵なグリモワールをしているね。僕のサバトウロボロスボロスしているよ。」

相変わらず咲良さんは全く反応してくれなかった。きっと驚いて声が出ないんだろう。今まで黒魔術を趣味にしている人に出会わなかった。そして今人生で初めて自分の同志を見つけたのだ夢か現実か戸惑っているに違いない。でもこういう時はもっと驚いた顔を見せてくれればもっとかわいいのになぁ。でも何事にも顔に出さないスキのないところもまたそれはそれで魅力なのだけれども。とにかくここで会話を途切れさせてはいけない。僕は二言目を発する。

「そういえば昨日のカドゥケウスは見た?あのアミュレットがトワイライトゾーンしたのは傑作だったね!思わず僕もウロボロスボロスしちゃったよ」

ここまでもやはり無反応。まだ咲良さんは夢でも見ていると思っているのだろうか。それでも焦りは一切表に出してこないというのはすごいな。僕だったらあわあわして穴という穴から汗が吹き出してしまう。とにかくもっとそれっぽいことを言ってこれが現実であることを認識させなければ。

そんなこんなで数えきれないくらいの黒魔術トークをしたが咲良さんがそれに返答をしてくれることはなかった。もしかしたら咲良さんは黒魔術を嗜んでいないのかもしれない。でも僕との共通点を見つけられたことは一つの収穫なのではないのだろうか。とにかくこの今日得た情報を元に明日も交流を深めようと帰路に就いた。

しかし、ここで問題が発生した。なんと明日と明後日はどちらも休日だったのである。咲良さんのことで頭がいっぱいになっていて大事なことを見落としてしまった。僕は咲良さんの連絡先はおろか住所も知らないのである。つまり今から二日間は彼女と接触することは不可能なのである。そしてこの二連休を超えた先に待っているのは24日。僕が告白する日である。つまり僕と咲良さんとの信愛度は昨日までのもので最終決定してしまうのだ。一週間の猶予があるかと思ったら実際は四日しかない。でも僕には告白は絶対成功するという絶対的な自信があった。そしてこの濃密な四日間は二人の仲を確かなものにしたに違いない。こうして僕は二度目の運命の日を迎えた。

 

晴れやかな朝。今から始まるのはこれまでの総決算である。富士山の前を走り抜けたいところだが気持ちを抑えて学校へ向かう。ここからは前回告白した広場へと咲良さんを誘う。まず咲良さんの靴箱の中に放課後、さらささ広場に来るように書いた手紙を入れる。さらささ広場というのは学校の近くにあるだだっ広い草原で真ん中に大きな木がある広場だ。どうやらこの木の下で告白すると必ず恋が実るらしい。もう告白が成功するのは確定事項なのだが一応保険として前回同様告白はここでしようと思う。

さて、告白するセリフも考えもう何も失敗する要因がなくなったところで僕はさらささ広場で咲良さんを待った。

待った。

待った。

待った。

日が暮れた。

待った。

待った。

月が昇った。

おかしい。全く来ない。とんでもない想定外の事が起こってしまった。咲良さんが告白の場に来ない。どんなに完璧な台本があってもそこに役者がいなければ演劇は成功しない。僕は咲良さんとの信愛度がいいところまで行っていたと思っていたが全く足りなかったのである。僕は悲しんだ。涙を流して急いで家に帰った。そしてまたケツドラムスのCDをかけて心の傷を癒した。そして鍵付きの引き出しの中にしまっておいたあの発明家からもらった機械の赤いボタンを押す。そして三度目の17日に向かった。

 

三度目はあまり進展がなかった。二度目のルートと同じように彼女は告白の場に来ることはなかった。それから十回くらいは同じような道をたどった。そして僕はついに万策尽きてしまったのだ。そこで僕はこの何回でもやり直すことができるという特性を生かしてみることにした。

一回のルートで告白するのを考えるのではなく彼女のことを何回かじっくり観察することによって、色々な今まで見えていなかった部分を見るのである。なんていいのだろうかこれをすれば彼女と今まで作ることができなかった入学後の空白の期間を埋めることだってできる。早速僕は赤いボタンを押して十九回目の17日に行った。

 

18日(火)晴れ

今日も咲良は窓際の机でよくわからない本を読んでいた。崩れることのない崩れることのない仏頂面をもう何回見ただろうか。でもまだ足りないなもっと見ていたい。授業中は真面目だ。黙々と板書をしていて優等生だ。きっと頭も良いのだろう今後の追跡で分かるはずだ。頭を動かす時にふわっとくるあの匂いが鼻腔をくすぐるたびにトリップしそうになる。

昼休みは図書館に行っていた。読んでいるのは教室で呼んでいるような真っ黒のへんな本ではなく表紙に人の目の写真が敷き詰められているへんな本だった。

放課後は特にどこかで道草をすることもなくまっすぐと帰って行っていた。ここで大収穫を得た咲良の家の所在だ。これでついに土日でも咲良と接触を図ることができる。まだ焦らずに観察を続けよう。

 

19日(水)晴れ

今日は自分史初、家を出る咲良をこの目に収めることに成功した。咲良はかなり朝早い段階で家を出ているようで学校にはクラスで一番最初のかもしれない。万が一教室で二人きりになってしまったらまずいので人が来るようになるまでそこには行けない。もどかしい。

登校中は音楽を聴いているらしくイヤホンをつけていた。けれども表情を一切変えないので曲のジャンルとかは分かんなかった。

朝の行動以外特筆するような変化はなかった一日の行動は規則的になっているのだろう。

 

22日(土)曇り

9:30 家を出る。ついに僕は咲良の私服を観察することができた。白と黒のボーダーシャツにデニム。盛ったりもしないシンプルな格好だった。

10:00 市の図書館に入る。優雅に本を読んでいた。

12:00 帰宅。昼食でも取るのだろうか

そこから彼女は家から出ることはなかった。彼女はやはり本の虫であった。

 

23日(日)晴れ

8:27 家を出る。この日の服装は半そでパーカーにジーパン。咲良は自分を飾るというのはあまりせず、自然体のままでいる服装だ。

8:37 電車に乗る。都心の方に向かう路線に乗った。

9:04 降りる。

9:17 怪しげな古本屋に入る。本が大好きだ。

16:13 色々な古本屋をめぐり電車に乗って帰宅した。

彼女は毎日のように本に憑りつかれた生活をしている。インテリ系だが本に対する情熱は一級。一つの趣味に熱心な彼女に一層惚れる。

 

そこから僕は何回も何回も咲良を観察した。ノートは三冊目に入ろうとしているところだった。けれども僕は結局彼女が奇妙な本が好きということしかわからなかった。咲良は外に出ているときは何事にも反応を示さない。しかも僕が見られる期間はおんなじ一週間だけでもう次にどんな動きをするか予測できるまでになった。けれどもこれではいけない。どうにかして彼女をものにしなければならないのである。もっと彼女の内面を知らなければならない。将来の夢から下着の色まで。彼女の隅から隅までを知り尽くさなければならない。そうしなければ僕の告白は成功しないのである。僕にはまだ知っていないブラックボックスがあるのだ。それは彼女の家の中である。僕に残されている手段はもうこれしかない。彼女の家に潜入し、彼女の家の中での挙動を一つ一つ記録していくのである。彼女が家で見せる本当の姿というものを自分の脳に焼き付けるのだ。この一週間の彼女のすべてを見るのだ。そうと決まれば後は実行に移すだけ。僕は例の赤いボタンを押した。

 

視界が歪んだ後、ここは17日。体への痛み耐えながら立ち上がろうとする。時を戻すたびに体がとても痛くなってくるような気がした。そんなことはどうでもいい。僕は彼女の家に行くために外に出る。体が痛い。いつもならばもうとっくに治っているはずなのだが今回はなかなか治らない。立つのが厳しくなり電柱に寄り掛かる。少ししたところで後ろから聞き覚えのある声がした。

「調子はどうだい?恋に悩む少年。」

声の主はあの発明家だった。

「あと少しで実りそうです。ありがとうございます。ハクシさん。」

「お礼の言葉なんかどうでもいいんだが。体に変化とかないか?」

「変化?」

「体が痛いのが強くなったり長くなったりするとかだよ」

「それだったら今ちょうどものすごく体が痛いんですよ。それもいつもよりも痛いし長いんですよ。」

「そうか。ちょっと腕触ってもいいか。」

そういって発明家は僕の腕を触ってなでるととてもうれしそうな顔をした。

「時に少年、これで何回目の17日だ?」

「えっと51回目です」

それを言うなり、発明家は目を見開いて両手を上げて叫んだ。

「やったぁぁぁぁ!実験は大成功だぁぁぁぁ!」

「実験は大成功って。いったいどういうことですか?」

興奮を抑えきれない発明家はこう言った。

「まぁまぁ見ればわかるさ。あぁでも君は見ることができないのかじゃあいいや君に説明しよう。」

僕はよくわからないので発明家の話を聞くことにした。

「単刀直入に言おう。君は今から木になるんだよ。」

僕は全く理解できなかった。

「木って、植物の木?」

「そうだよ。このタイムマシーンは世界を構成するコードを書き換えて過去に戻しているんだ。世界を書き換えるかなり大きな影響力が生まれるものだからこの機械の近くにいる人のコードはかなり大きく書き換わってしまうんだ。最初は思考がおかしくなったりするだけで済むんだが何回もそれを繰り返していくうちに人を構成するデータが書き換わってしまうんだ。そして人のデータから互換性が一番近い木のコードになってしまうってことだよ。どうだい分かったか?だから君は今から木になるんだよ」

僕は全く男の内容が頭に入ってこなかった。それは男の話す事実を否定しようとしているからなのかもうよくわからなかった。どうにかして絞り出して言葉を吐き出す。

「コードってなんだよ人の体を構成しているのは細胞とかじゃないのか

その言葉に男は僕に近づきながら淡々とこう答えた。

「君たちが学問といっているものは観測されたごく一部の事実を自分たちの都合のいいように解釈しているだけだよ。だから私のように他の世界があるということを気づかない。そして生物は細胞でできているというのは君たちがそう解釈しているだけに過ぎない。私たちから見れば万物はすべてコードでできているんだよ」

僕はこの男の存在というのがよくわからなかった。自分が本当に認識できるものなのか。本当は認識の外にあって本来ならば見てはいけないものなのではないか。僕はこの男が怖くなり彼を突き飛ばしてここから逃げようとした。けれども腕は動かなかった。僕の腕はになっていたのだ。他に表現しようがない。これは確かに木だった。僕は驚いて尻もちをついた。いつもなら聞こえないようなとても固い音がした。

立ち上がって逃げ去ろうとしたが足は動かなかった。木になっていたのだ。

僕は恐怖のあまり叫ぼうとした。けれども声は出なかった。喉と口が木になっているのだ。

発明家が口を動かして何か言っている。けれども何も聞こえなかった。耳が木になったのだ。

もう僕は何も感じ取ることができなくなった。目も鼻も木になったのだ。

すべてを失いものすごい恐怖に支配されていたがそれも感じなくなった。脳も

 

不思議なことに目が覚めた。僕は体育座りの姿勢で丸まっていた。そこはまるで子宮にいるような生命の温かさを感じる場所だった。とても狭くて動くことはできないが明るさはあった。穏やかな音も聞こえるし、安心する香りもした。五感を取り戻したことに脳が喜んでいた。ここは一体どこなのだろうか。すると三十代くらいの年老いてもないし若くもない半端な声が聞こえた。

「目が覚めたかい。私は君の世界で言う警察的な存在だ。私たちは君に謝罪をしなければならない。君にあのタイムマシーンを渡してきた男。奴はとんでもないマッドサイエンティストで変な実験ばっかり繰り返していたのだ。彼は私たちの世界で実験することを禁止されたのだが、なんと世界をまたいで別解釈の世界で実験を始めてたのだ。他の世界で怪しい実験をすれば界交問題にかかわることだ私たちは奴を探しそして捕まえた。けれども君は間に合わなかった。奴の実験の犠牲になってしまった。まだ助かる状態だったから今こうやって治療をしているわけだ。大事にならなくてよかったよ。とにかく私たちが未熟だったせいで君には多大なる迷惑をかけてしまった。お詫びといっては何だが元の世界に戻ったとき、君にプレゼントをしておこう。きっと喜んでくれるはずだ。それじゃあまた眠ってもらおう。大丈夫。元の世界に帰るだけだから。」

 

目が覚めると僕はさらささ広場にいた。何が起こっているのかよくわからなかった。いまいち今まで何があったかも思い出せない。どんな経緯で僕はこのさらささ広場の草原で寝ていたのだろうか。不思議に思いながら僕は帰路に就いた。

翌日、僕は夏休み前最後の学校から帰っていた。毎年のように今年も一人でのんびりとした夏休みを送るのかと考えるとなんかさみしい気持ちだ。そんなことを考え手から誰かにぶつかってしまった。

キャッという声とともにぶつかった相手は転んでしまった。鞄を落として中身がぶちまかれてしまった。僕が引き起こしたのだから拾うのは当たり前だ。すみませんといいながら落ちてるものを回収する。散らばった教科書や本を拾い上げる。どこかで見たことのあるような本ばっかだった。鞄から飛び出たものにCDもあったらしいそれを手に取る。そのCDはとても見覚えのあるジャケットだった。これはもしかしなくても「あっ」という声がぶつかられ主から発せられた。振り向いて見てみるとその人は咲良さんだった。急な恋する相手の認識にドキドキする。顔が少し赤くなる。けれどもそれ以上に彼女の顔は赤らんでいた。眼は見開いてあわあわしている。今まだ見たことのない顔だった。

「このCDってケツドラムスだよね」

「そう

耳まで真っ赤な彼女は顔を鞄にうずめていたのでこもった声で小さく答えた。

「ど、どうしてそんなに恥ずかしがってるの」

「だって、みんなケツドラムスって言うと笑うんだもん変なの聞いてるってバカにするんだもんあなたもバカにするんでしょ」

いつもは平坦な抑揚のない声でしゃべる彼女がこんな情緒的に話すのを聞いてものすごく新鮮さと可愛さを感じた。

「そんなことないさ!だって僕もケツドラムスのファンだもの!」

「本当!?」

鞄に顔をうずめていた彼女が目を丸くしてこちらを向く

「ケツドラムスのファーストシングルのタイトルは?」

「『ケツドラムスのうた セミファイナイル』!最初のころからケツドラムが情熱的でかっこいいよね。」

「ケツドラムス復活の時に行われたライブのタイトルは?」

「『帰ってきたケツドラムス』!見に行ったよ。」

彼女が質問をして僕が答えるたびに彼女は目を輝かせながら僕に歩み寄ってくる。いつもなら絶対に見せないような表情を僕に見せてくれる。目と鼻の先くらいまで近づいたとき

「じゃあ!じゃあ!ケツドラムスで一番好きな曲は!?」

「『ケツドラムⅤSウクレレ ~史上最強の秘密兵器~』!」

「好きな曲も同じなんて!」

彼女はついに僕に握手をしてきて飛んではしゃいでいる。初めて彼女の手を触った。とても柔らかくてすべすべで

「ねぇ!この前発売されたLIVEDVD!家にあるんだけど見る!?」

NOと答えるはずもなかった。荷物を整えて僕は彼女とともに家に向かった。その間もずっと咲良さんと話し続けた。今までしてきた会話量なんて米粒くらいに思えるくらい話した。

季節は夏。僕の恋は一つのゴールを迎えた。

情愛

コーヒー

 

「不思議だよね」

唐突に咲希が言った、何時も歩いているぼこぼこの砂利道を人で石けりしながら進む、くるくると石を足でコントロールしながら咲希は5m先の看板にぶつけた。

「マイノリティ、っているじゃん。私が番嫌ってたマイノリティ。普通を求めていたのに結局私どうかしてるよね。」

「咲希がマイノリティのうちの人だと思わないけど俺は。」

「じゃあ私たちの関係って何。」

「それは、また別でしょ」

咲希は下を向きながらまた石蹴りを始める、俺は飽きて周りの景色を眺めながら呟く。

「咲希が女の子を好いているなんて初めて知った。」

「誰にも言ってなかったから」

咲希は昔から彼氏が続かずころころ変えるタイプだった。その様子から単純に気分がよく変わる女の子というイメージがついてしまっていたが彼女と俺の関係が始まる前に告白されたのだ。それは俺の彼女だった玲子に振り向かれるように協力して欲しいとのことだった。俺は正直驚いた。まさか、本当に女の子が女の子を好きになるということがあるとは思わなかったから。咲希は普通になりたかった、と言っていた。女性は男性を愛するという普通のこと、この高校生の間はカップルが出来て盛り上がること、少女漫画にあるありきたりな恋でも普通と呼べるものを咲希は求めていた。玲子のことを意識し始めてからは時計の針が止まってしまったかのように普通に対する概念を捨てて俺と毎日帰りながら雑談するのだ。正直頭おかしい関係だ。駅前で時間も話したり休みの日もどこか出かけたり俺たちの関係は周りから付き合っていると思われるように。

 

「陽斗は玲子のどんなところを好きになったの」

「うーん、優しくて穏やかなところ」

「ぶっぶー、30点ね、その回答」

「なーにが30点だよ」

「ふふ、面白」

 

俺らは世間一般的に見たら付き合っていると思われているのだろう、きっと。だからこそ先生方にも目をつけられている、そんなのぶっちゃけどうでもいいのに。

 

咲希は玲子の好きなところを挙げて言った、

優しくて誰にでも平等なところ、可愛いのに謙遜して相手を立てるところ、努力家で常に上を目指しているところ……

普段から関わりが本当にあるかどうかでみたら少ない方なのに毎日俺との会話で楽しげに話してくれる、正直毎回おなじことを話されるから飽きてくると思われるかも知れないが咲希のそういうところが俺は好きなんだろうか。

 

「人って自分の固定観念を押し付けるのってなんだろうね、例えばさ女の子は頭良くてスポーツできて優しい男の子が好きなもんだとか、好き嫌いが激しい人はわがままな性格だとか、学校に来ない人は甘えてるとか」

 

「自分の考えをひけらかして気持ちよくなってるだけじゃないの」

 

「オチのない話を永遠と語ってて疲れないのかな」

 

「貴方のために、みたいなの全部押しつけがましい感情論でしかないのに」

 

カフェに着いて俺がブラック、咲希は角砂糖をつ入れて飲む、咲希が話しているのも全部角砂糖におしよせて全て飲み込んでいるのだろうか

 

「苦い」

 

砂糖が沢山入っているはずなのに

 

「全部、全部、熱があるときにやるからかな」

 

「確かに苦いかも、」

 

不純物なはずなのにぐちゃぐちゃに口の中で苦いと甘いと酸っぱいが混ざっている、相容れることが出来たらきっと面白くはないから

 

「酸いも甘いも噛み分けてーー……

 

微笑

 

担任から俺は呼び出された。なんのことかさっぱりだったから職員室に放課後向かうと俺の他に咲希が待っていた。

 

「よう、どうした。」

「呼び出しくらった。」

「うえー……お前も?」

「いえす」

 

暫くすると担任の他に人の先生が職員室から出てきた。先生方の顔色を見るとどうやら嬉しい話では無さそうだ、まあ嬉しい話ならわざわざ呼び出さないか。担任、副担任、生活指導、副校長、こんな具合か。担任は俺たちを一瞥して中に入りなさい、と来客者用の別室に案内された。

 

「君たちは付き合っているのか。」

「は?」

 

唐突に聞かれて俺は驚いた。担任の他の先生方の目を見ても確信されているかのように、そんな感じで担任は話し始めた。

 

「恋をするなとは言わないんだがね、君たちもう高校生なんだから、月は年生になるしもう少し勉学に励み大学からでも良くはないか」

「佐々木咲希さん、貴方の成績は中学の頃と比べて下がっている、清瀬陽斗くん、君の成績は圧倒的上位だったのにも関わらずここ年で中位まで下がってしまった」

「学生は勉強が本業なのだからもう少しそういうのは慎まないか」

「まあねぇ、若いっていいね無責任なことがいくらでも出来るのだから」

「ということだから今回のことは残念だったよ」

 

ひたすらに、ひたすらに疑問しか無かった。俺らの関係を一概に「恋人」だと決めつけた先生達のことを、全て成績に押し付けて、辞めろという気持ちを。

隣に座っている咲希は俯いて表情が見えない、震えている、いや泣いているのか、いや笑っているのか、読めない。

 

副校長が目の前に置いていた綾鷹のペットボトルのキャップを開けてごくごくと飲み始めた。それだけ見るとあー飲んでいるのだなとしか思わないけど今は滑稽な姿だと素直に感じた。

ゆっくり咲希は顔をあげた。俺と先生方は咲希を同時に見ていた。

 

「個性を尊重する学校なのに、面白いですね」

 

咲希はそういって退出した。

 

残った俺と先生たちは呆然とそこで座っていた。

 

ホワイトブラック

 

高校年生のクラス替えでは咲希と離された。きっと先生方の思惑もあるのだろう、だが咲希は玲子と同じクラスになれた。それでもうハッピーエンドだと俺は思う。だから今年こそ玲子との距離を縮めようと俺と咲希は思っている。

 

「れーいこ、一緒に帰ろ」

「いいよーあ、陽斗もいるけど」

「大丈夫、この人は荷物係みたいなもんだから」

「お、おう」

 

「玲子って好きな人いるの」

 

「うん、いるよ、別れちゃったけど今でも好き」

 

「それって陽斗のこと」

 

「そうだね」

 

俺はやや後ろから人で歩いていたがこの玲子と咲希の会話を聞いて頭痛がした。

咲希は俺の事を見たあと

 

「陽斗よりもいい人いるよ、例えばあたしとか」

 

「何言ってるの咲希、女の子と女の子が付き合える訳ないじゃん」

 

あ、と咲希の顔を見た。

 

咲希は笑いながら

「そうだよねー、それが普通だもんね」

と流した。

 

咲希は笑っていた。それが普通だもんね、彼女の気持ちはどこにいったら救われるのか俺は激しく怒りを覚えた。玲子にではなく、この社会の偏見を、俺はどうしようもなくて、変えたかったのに変えられなかった。

 

ある時のことを思い出した。

 

咲希と中学生の頃、水族館に行った。

 

咲希は水槽の中にいるシャチを見ていた。

 

「囚われて見世物にされるなんて私と同じだね」

 

「シャチって時々白いところがあるよね、あれってなんだろうと思って調べたんだ。群れで行動する時に仲間同士で位置を確認したり、獲物に進行方向を誤認させたり、自分の体を小さく見せる効果があるそうなのね。」

 

「でもこのシャチには何故かないの、水族館のこの看板には『珍しいシャチ!?アイパッチが無い!』なんて言われてるからこの水族館に来る人たちってこのシャチ目当てで来るのね」

 

がやがやという喧騒の音、何回も響くシャッター音。

 

「ねえ、みてぱぱ!」

 

小さな女の子が彼女の父親に肩車されながらシャチに指を指している。

 

「あのしゃち、なんでしろいところがないの」

 

「それはね、普通に生まれなかったからかな」

 

「ええかわいそうだよぱぱ」

 

咲希は深呼吸をしていた。

 

「だから、陽斗分かるか分かんないけど、普通じゃないって可哀想に思われて一生誰かの見世物になるのかな」

 

愚かに思われる、社会の偏見。

理解は示しつつ実際に身内にいたら受け入れられない。

 

踵を返し、咲希は前に進んだあの時。

俺はなんと言えたのだろう。

 

青春

 

「卒業生代表、佐々木咲希」

 

「はい」

 

無事に高校を卒業した。そしてその最後の卒業生代表の言葉を咲希が務めることになった。咲希は校長先生と目を合わせて微笑み、マイクの前で息をすう音が聞こえる。咲希には時折窓から零れる陽射しが当たり、眩しそうにしていた。

 

「卒業してから思ったことです。これから私は皆さんに告白したいことがあります。」

 

「世間一般的に見たら受け入れられないでしょう。それでも私は」

 

「私は、綾島玲子さんのことが好きでした。ずっと。」

 

会場がざわつく。「え、咲希って玲子じゃなくて陽斗じゃないの」「だってあいつら呼びだし食らったんだろ」「嘘でしょ有り得ない」

 

「女の子が女の子を好きにならないなんていう自分の中にあるひとつの考えを誰かに押し付けて生きていくのは辞めてください」

 

「マイノリティという言葉が嫌いでした。だってその社会のレールから外れたように感じるから。」

 

「誰だって誰かに存在を認められたいのに」

 

「あたかも自分の物差しが正しいと思い込む」

 

「誰かをそうやって間接的に殺していることになります」

 

「自分の感情を他人に押し付けて都合のいい学校を作らないように、都合のいい社会を作らないように私は祈っています」

 

「許してください」

 

咲希は目の前でナイフを取り出した、そしてそれを投げた、また走り出した、追いかけなくてはならないなんて頭では分かってる、分かってるけど

苦しいなら解放してあげればいいという考えもある、正解がわからない、周りは驚きどよめく。

 

咲希はこの世界から居なくなった。

 

彼女の終わりはこれで良かったのか。

最後に咲希は

許してくださいとまで言っている。

だれが悪いのかわからないのに正解を伝えたのが悪かったのか

それともこういう運命だったのか露知らず

 

彼女の青春時代は幕を閉じた。

like you

「またあとで」

「ああ、うん」

 最後まで残ってくれていた裏切り者がいなくなってしまえば、一人の為にしてはいささか照明が明るすぎる教室には、俺だけが取り残されていた。

 先程までやたらとよく動いていた口元はなりを潜め、俺はただひたすらに、シャーペンの先端を日誌の欄内で走らせる。

 「九月七日、快晴」。名前は「菊月」だけでいいか。

 中学校という組織がある以上、各クラス、一日に一人は日直が必要だ。今日はその役割を果たさなくてはならない人が、俺だっただけのこと。

 いつもなら誰かしらの気配で満たされているはずの教室には、紙と芯が擦れる、かすかな音だけが響いていた。

 ふいにその音が止み、辺りがささやかな風と陽だまりに包まれる。

………代数、なにしたっけ」

 行くあてのない言葉がもれたが、当然誰かに拾われることはない。訪れた静寂の中に、淡く溶けて消えてなくなっていった。

こんなことなら、授業中の空き時間にでも、めんどくさがらずに書いておけばよかった。

「はぁ〜あ」

 数時間前に既に予想がついていた後悔をなぞり、何もかもがひどく億劫になってきてしまった。シャーペンを邪魔にならない位置に転がしておき、背中を丸めて、机上の日誌に体重をもたせかける。

 紙の柔らかさと冷たさが、案外頬に心地いい。頭と腕の骨がぶつかりあって痛いが、机と直に接するよりかは支障がないだろう。目を瞑ると、ベッドの中と寸分たがわない、鮮やかな紅い暗闇が視界を支配した。

 少しだけ開けられた窓から吹き込む風が、俺の鼓膜を優しくなぜていく。九月のくせして夏のような眩しくも壊れやすい日差しが、今だけは都合が良かった。

 しばらくの間そのままくつろいでいたが、眠気の代わりに着々と降り積もっていく虚しさに耐えかねて、あくび混じりのため息をつきながらも顔を上げる。

 しかしながら、別に日誌に書くべき内容を思い出した、という訳でもなく、頭部の重さから解放されたはずの右の指先はただ、気まぐれに空気を掴んでは逃がしてを繰り返すだけであった。

————うあ、めんど。

 今度は声に出さなかった。

 一度「顔をあげて日誌を書こうとしてみる」という偉業を達してしまったせいで、本命の日誌が何一つ進んでいない。きっともう一度書き始めてみればいとも簡単に書けるのだろうが、それが出来ないから日誌はめんどくさいのである。

 他のクラスメイトが書いた日誌でも読めばやる気が湧くかも、とも思ってページの端に指先をかけたが、それは最後のお楽しみに取っておきたかった。となると、やはり日誌を書く前に黒板を掃除しておくのが妥当なのだろう。

 そう結論づけると、重い腰を引きずりあげ、六限の授業の痕跡が残っている黒板の前に立つ。

 後にした方が良いのは分かっているが、気が向いたのだから仕方がない。先に溝の掃除を済ませると、一番近くにあった黒板消しを利き手に取る。

 我がクラスを担当する幾何の教師は背が高いので、俺ほどの身長を持ってしてでも、黒板消しを縦向きにしなければ上の方まで消しきれない。指先をフルに使って黒板消しを持ち上げ、動かしていると、段々と作業を続行するのも面倒くさくなってきた。

 これが水瀬だったらどうしていたのか、想像にかたくない。あいつはまだ掃除当番が残っている間に仕事を終わらせてしまうから、きっと文句を言いつつ、恨みがましそうに背の高いやつに頼むのだろう。それか、精一杯背伸びをして、意地でも自分でやろうとするか。

 そこまで考えて、俺は馬鹿らしくも笑ってしまった。水瀬と俺で食べているものや生活習慣はそうそう変わらないのに、ここまで身長に差があるのはどうしてなのだろう。まあ、どんな原因であろうと、俺が水瀬をいじる口実になってくれているのだからいいか。

 頭の中に湧いてでたメロディーを意味もなく口ずさむ。まるで耳元で囁かれているかのように、自分の声で紡がれていく旋律が、気持ちよく脳に響いた。

 その延長で、これではいけないとは思いつつも、日誌の存在は思考の隅へ追いやられていく。それでも順調に証明の解説を元の濃紺に溶け込ませている黒板消しだったが、仕事も中盤に差し掛かった辺りで、突如として何かをためらうようにキュ、と動きが止まった。

……

 その原因が黒板に乗せられたチョークの粉末の連なりにあることは、俺自身が一番よく理解していた。

 ぼんやりと、視界が狭まる。

 

 終学活で水瀬が書いた、今日の掃除当番の番号だった。認識すると同時に、音声が脳内にふわりと蘇ってくる。

「惜しい。だったら、なんかいい感じの数列になったんだけどな」

「俺、掃除すんの嫌なんだけど。って書くなよ」

「もう、そんなの分かってるよ」

 その時点では日直の仕事をすっかり忘れていたから、まだ気楽に掃除当番をあわれむことができた。ざまあみやがれ、とでも言うように日直日誌を目の前に差し出してきた水瀬には、理不尽な怒りしか湧いてこない。

 思い返せば、水瀬は昔からそういうやつだった。

 そっと左手を黒板に添えた。一瞬だけその冷たさに驚いた指先を微かに動かすだけで、摩擦によって発生した音が五つに重なり、落ちていく。体温に浸食された黒板と指先を共有していると、あたかも自分と手を合わせているかのような錯覚を覚えた。

 焦点の合わない頭で考える。

 あいつの字は、雑だ。

 良く言えば達筆、悪く言えば乱雑。ひらがなは漢字に比べて大きすぎるし、特に「とめ」がなにかと蔑ろにされている。何より、字一つひとつのバランスが悪い。

 だけど、読みやすい。全体的に見れば整っているほう、だとも思う。数字だと分かりにくいけれど、たまに見るプリントに連ねられた字は、けっこうキレイだったりするのだ。まあ、近くで見ると途端に化けの皮が剥がれ落ちるが。

 宛もなく彷徨っていた思考が、ストンと着地する。

————まるで、あいつ自身みたいな字だ。

「ふぅ…………あ、」

 思い出した。今日やったのは、素因数分解を利用する式の計算だ。

 忘れないうちにと黒板消しを走らせて、付着した粉を即座に吸い取らせる。雑に終わらせたのでまだ白く霞んでいるが、それくらいなら先生も許してくれるだろう。

 席に戻って日誌を書き出せばあとは簡単で、メモ欄は適当な今日の反省で埋めてしまう。最後にこの冊子を先生に提出すれば、この面倒な業務はしばらくやらずに済むのだ。抱えていた課題を終わらせることが出来た達成感で、心なしか気分が高揚しているのが分かった。

 職員室を尋ねる前に、最後の後片付けをしながら記憶をたどる。

 そういえば、今日は部活がないから水瀬たちを図書室で待たせているんだった。わざわざ待ってやっているのに今まで忘れていたとはどういうことだ、と文句を言われそうな気もするが、そこに関してはお互い様だろう。そもそも、こっちが言わなければ気づかれることでもないし。

 あとは、と声に出さずに呟く。日誌を読むのは、またの機会でいいか。元からそんなに興味もなかったから。

「よし、終わった〜」

 教室を出ようとしたところで、吹き込んできた風に全身をなぶられて、窓を一つだけ閉め忘れていたことに気が付く。邪魔な机を避けながら近づいていくと、柔らかな風越しに見えた空は、うざいくらいに秋らしく澄みわたっていた。

 

 

 

 

あとがき

 

 初めての小説です。〝蒼〟な雰囲気を目指して書きました。よろしくお願いします。

笑顔

 君の笑顔は、僕の世界を変えてくれた。太陽みたいに眩しくて、見ていると暖かな気持ちになれるその笑顔が、僕は大好きだった。

 

初めて君を知ったのは、桜が舞い散る季節のこと。

和泉市から来ました、宇佐見愛菜です。

 よろしくお願いします。」

そう言って笑う君。短く切りそろえた髪が揺れる。

思えばあの時、あの笑顔をみてから、僕は君を好きになったんだと思う。

 

 初めて君と話したのは、七月。英語の発表でペアになった。

君は英語が苦手な僕に、たくさんのことを教えてくれた。おかげで、発表は大成功だった。

 

 次に君と話したのは、十月。図書委員会で一緒になった。

 よろしくね、と言って微笑んだ君の笑顔は、やっぱりあの時と一緒だった。

 

君に好きな人がいると知ったのは、二月。どうやらその人に手作りチョコレートをあげるらしいと聞いた。

 

君はすごく人気者だった。対する僕は、平凡で、さえない男子。

共通点なんて少ししかなかったし、君と話すのは、勇気が必要だった。

 

 そして、三月。君は何の前触れもなく転校していった。

 

 ほんとは、悔しかった。君に何もしてあげられなくて。

 ほんとは、悲しかった。君との思い出なんて少ししかなかったから。

 でも僕は、それを誰にも見せなかった。怖かったんだ。

 

 そして今日、僕は風の噂で知った。君が亡くなってしまったことを。

 

 知らなかった。知っているつもりでも、僕は何も、知っていなかった。

 君は、重い病気を周りに知られまいと、わざと明るく振舞っていたんだ。みんなが君のことを病気だなんて思わないくらいに、君は明るかった。

 僕だって、信じたくない。でも、君の笑顔がやけに眩しかったのは、きっとそれのせいなんだ。

 

ここはもうすぐ八月。時間があったら、花束を抱えて君に会いに行こうと思う。

 その時までには、僕も君みたいな笑顔を作れるようになりたい。

 

       *

 

「私、好きな人ができたんだ。」

 突然の告白に驚く私に、恥ずかしそうに頬を赤らめる愛菜

「今はまだ何もしないけど、そのうち、気持ちを伝えられたらいいな。」

 そんなことを言っている友達を、応援しないわけにはいかない。

 

和泉市から来ました、宇佐見愛菜です。

 よろしくおねがいします。」

 太陽みたいな、見ているだけであったかくなる笑顔をしている彼女。初めは、何だこのかわいい子って思ってた。席が前後だった私たちはすぐに仲良くなった。

 美人だから性格は悪いんだろ、なんていう人がいるけど、愛菜はそんなんじゃない。瞬く間に、彼女は人気者になっていった。

 

 そんな愛菜のことを、密かに好きだった人はたくさんいたと聞いている。クラスの、いわゆる陰キャと呼ばれるような人から、人気者まで。より取り見取りな選択肢の中から、彼女が選んだのは、平凡な子だった。どこの教室にでもいそうな男子。「なんでその子が好きなの?」と聞くと彼女は、決まってこう答える。

 好きになっちゃったんだから、しょうがないじゃんって。

 

 二月。彼女は、バレンタインデーに何かしようか迷っていた。チョコレートでもあげれば、といったが、結局何もしないと決めたらしい。

 そんな会話を学校の中庭でしたのがいけなかったのかもしれない。

 翌日の朝、彼女に好きな人がいることがクラス中に知れ渡っていた。彼女は慌てて否定したが、真っ赤な顔を見れば誰だって丸わかりだろう。彼女の淡い恋心は、一瞬のうちにクラス全員が知るものとなった。

 

 三月。彼女が転校することを知った。悲しかった。でもそれと同時に、ある一つの疑問が浮かんだ。

「彼に何かしないの?」と聞いた私に、彼女は黙って首を横に振った。

 そして愛菜は、旅立っていった。

 

 彼女との文通。今日届いた手紙に、目から水が溢れる。それが涙だとわかる頃には、私はとっくに泣いていた。

 こうなることをわかっていて、彼女は、愛菜は、彼に何もしなかったのだろう。仲良くなってしまったら、きっと彼は悲しむと思って。

 

 夏休みになったら、私は、彼女に会いに行く。たとえ、彼女がそこにはいなくても。

 愛菜の生きた証があれば、十分だから。

 

       *

 

 ふう。祐未への最後の手紙を書き終え、何気なく窓の外を見る。いつの間にかものすごく暗くなっていて、私がこれから行く世界もこんなに暗いのかと思ってしまった。いけないいけない。明るくいようと決めたのに。

 

七歳のころから書いている日記に、まさか「病気」という単語を書く日が来るなんて思わなかった。子供のころから元気で、滅多に病気にならない私がなぜか病気になったのが一昨年の夏。その病気のせいで、私はもうすぐ死ぬだろうと言われた。

 

 私は、中学生だった。それなりに友達もいたし、好きな人もいたし、親友と呼べるような子だっていた。でも。

 

余命が残り四か月だと知ってから、急に怖くなったんだ。友達に囲まれるのが。

 

余命四か月だと考えていても、いつ死ぬかわからない。そんなことを言われて、正気でいられる人がいるのか。無理だ。

毎日毎日泣いた。学校では明るく、笑顔で振舞っていても、心の中は不安と恐怖でいっぱいだった。誰にも見られないようにため息をついたことだっていっぱいある。

 だから。

 だから、私は「入院」を「転校」と偽った。

 

その時は、突然やってきた。

 朝、いつもと同じように病院で起きた。今日は外に出てもいいと言われたので、着替えて病室を出た。病院を出て、目の前の横断歩道を渡ろうとしたその時だった。

 

「今日午前九時十五分ごろ、和泉市立病院の前の歩道に、飲酒運転の乗用車が突っ込み、中学生一人が死亡しました。」

 

 七月七日、水曜日。余命四か月と言われ、数えていた日のちょうど一週間前のことだった。

 

       *

 

拝啓

 雨上がりに大きな虹を見ました。すがすがしい気分です。いかがお過ごしでしょうか。

 さて、突然ですが、私、宇佐見愛菜はもうすぐこの世を去ることになりました。一昨年の夏に私の体の中に入った病気が、私を殺そうとしているみたいです。

 転校するまで、祐未と一緒にいることができた時間は、私の最後の宝物になりました。胸に抱いて、これから死ぬまで生きていこうと思います。祐未の幸せを一番に願っています。

 それでは、また来世でお目にかかれることを祈っています。

 どうか、お元気で。

敬具 

  令和三年七月一日

宇佐見愛菜 

上原祐未様

 

 

 

あとがき

こんにちは。如月悠です。

今作は、青春らしいものを書いてみました。楽しくて、悲しくて、儚くて、怖くて、あっという間で。青春ってそんなものだと思います。

楽しんでいただけたら幸いです。

帰省

「トリック・オア・トリート〜!」

 ガチャリと開いた扉の向こう、玄関先に立つ私を見て、久志は目を丸くした。顔を見るのは二ヶ月ぶりだが、少し背が伸びたような気がする。一瞬の沈黙の後、ため息を吐きながら弟は言った。

「おかえり、姉ちゃん。お菓子なら無いよ」

「お、悪戯して良いってこと?」

 両手を構えてがおー、とやれば、久志はますます頭を抱えた。

……取り敢えず、家入りなよ」

「はーい。ただいま」

 

 

「この格好どう?似合ってる?」

うーん、姉ちゃんってさ、昔からなんか悪趣味なところあるよね」

「なにそれー、まるで私のセンスが悪いみたいに言っちゃってさ

実際そうでしょ

 ちょっと気合を入れたこの格好は、あまり弟のお気に召さなかったらしい。白いワンピースに飛び散るは真っ赤な血飛沫。なかなかリアリティあるし、良いと思ったんだけどな。目の前でひらひらさせてみても、久志の反応は素っ気ない。

「やっぱちょっと背伸びた?」

「先月の誕生日で十七になったし、その時測ったら五センチ伸びてた」

「うわ、並ばれた。来年は抜かれるかぁ」

 

 手を洗ってリビングへ。どうやら弟は夕飯の支度中だったらしい。見慣れたはずのキッチンでも、目を凝らすと案外前と様子が変わっている。新しい鍋が増えていたり、昔から使っていたフライパンが無くなっていたり。コンロの上の鍋からは、スパイシーで美味しそうな香りが漂ってきた

 

「夕飯、カレー?差し入れに卵買って来たけど、目玉焼きとか焼こうか?」

……遅いよ。もう食べるとこだし。姉ちゃん料理下手なんだから座ってて」

 癪なやつだ。小学生の頃にレンジで卵を温めようとして、爆発させたのはそっちじゃないか。あの時私も掃除に巻き込んだこと、忘れたとは言わせない。

 

「あれ、そういえばお父さんとお母さんは?」

「まだ仕事。今日中には帰ってこられなそうだって」

「マジかー。まあ、今回は諦めるかな。夏にも顔見たし

「え、姉ちゃん夏来てたの」

「ほんのちょっとだけどね。あれ、会わなかったっけ」

 カレーとご飯を皿によそって、リビングのテーブルにカチャリと置く。スプーンを探すのにやや苦労している間、久志は一言も喋らずに待っていた。折角の再会と言うのだから、話題の一つや二つくらい自分で見つけてほしいものだ。

 

 

「「いただきます」」

 こうして家で食事をするのは、いつ以来だろうか。夏は両親も弟も、果ては親戚までもが家に居たけど、こんな風に私を含めて食事はしなかった。その時は文字通り顔だけ見て帰ったから、改めて言葉を交わすのも久しぶりだ。

「お、美味しいじゃん。自分だけで作ったの?」

「まあ、野菜とルー煮ただけだし。これくらいじゃ失敗はしないよ」

「へー、上達したね」

「ありがと。……って、姉ちゃん服、跳ねてる跳ねてる

「うわっ、慣れない白なんて着るんじゃなかったか」

 赤い染みに点々と茶色が飛んで、ちょっと間抜けな感じになってしまった。まあ、他の誰に見せるでもないし良いか。早々に諦めて食事を再開する。

 スプーンですくって、一口。もう一口。気がつけば、もうほとんど一皿食べ切ってしまった。うん、やっぱり美味しい。敢えて言えば野菜はもう少し固くても良い気がするけど、それは私個人の好みの問題だろう。何でも噛みごたえのあるものが好物な私と違って、弟はやわらかいのが好きだったから。

「姉ちゃんって大食いだよな……

「失礼な。美味しいから食べてんの。あー、毎日食べられたらいいのに」

……

 私が二杯目も平らげようとする頃、久志は席を立って冷蔵庫からペットボトルを取り出した。爽やかな音と共に蓋を開け、二人分のコップに注ぐ。

「なんだ、ジンジャーエールか。私コーラの方が好きなんだけど」

「あるにはあるけど、冷えてないんだよな。文句言うなら何もやらない」

「嘘嘘ごめんなさい久志さま」

 

 

「あー、美味しかったー。ごちそうさま。上行く?」

「そうするか」

 食事を終えて一息つき、久志の皿洗いが終わったところでいざ二階へ。階段の七段目が軋むのは、私が生まれてこの家に引っ越して来た時から十八年間、全く変わっていないらしい。

 

「お邪魔しまーす。うわ、この部屋も全然変わんないね」

 やって来たのは弟の部屋。相変わらず面白みのない、最低限の家具くらいしか置かれていない部屋だ。でも、棚に並んだ本は少し難しそうなものになってるかも。ベッドの下を覗こうとした頭を叩かれて、渋々久志の隣に座る。こうやって並んで座って、よくゲームで対戦したっけ。あの頃は全然余裕で勝ってたけど、今やったら負けるかな。

「ねえ、久しぶりにゲームやらない?まだあるかなー、ほら、あの3DSのやつ」

「いいよ。多分まだ姉ちゃんの部屋にあると思うし」

「よっしゃ。なら取ってくるわ」

 自分のゲーム機を探す弟を尻目に部屋を出て、目指すのは隣の部屋。ドアノブは、思っていたより随分すんなりと回った。

 

 入って、パチン、と電気をつける。机の上に目をやって、いつかの宿題がそのままにしてあるのを見つけてそっと視線を逸らした。いっそ片付けてくれてもいいのに。自分で何処かにやってしまおうかとも思ったが、これ以上久志を待たせるのも申し訳ないのでゲーム機を探し始める。きっといつもの定位置、二段目の引き出しの中。ほら、やっぱりあった。カセットもちゃんと入ってる。結局机の上はそのままに、電気を消して部屋を出た。

 

 

「あったよー」

「こっちもあった。でも電池切れ」

「うわ、本当だ。充電しよ」

 ゲーム機にコードを挿して、オレンジ色のランプが点くのを確認。これで待てば良いはずだ。

「終わるまで何しよっかー」

……姉ちゃんさ」

「どうしたよ?」

「何でそんな格好してんの?」

 振り返った先の弟の目は、まるで小さい時みたいに真っ赤だった。

 

 怒らせてしまったかな。跳ねたカレー跡を誤魔化しながら、私は慌てて言い繕う。

「だ、だってハロウィンだし、折角なら怖がらせたいなーって思ったから……あっ、もしかして怖すぎた?ごめんごめん、だけど……

「違うんだよ。そうじゃなくてさ。その、俺の言いたいのはさ、」

……なに?」

 

「毎日、居てくれてればいいのに。カレーくらいなら、毎日、作るし。卵なんて買いに行かなくても、俺が全部やるし。コーラだって冷やしとく。だからさ、ずっと……

 堰を切ったように喋り出した弟の肩にそっと手を置く。まったく、本当に久志は優しいんだから。姉冥利に尽きるってものだ。でも、

……ごめん」

 

 俯いていた久志の顔が、弾かれたように上がった。そんな表情しないでよ。いきたくなくなっちゃうから。

 

……どうしても?」

「うん」

「そっか、そうだよな。……悪かった」

 

 それから私達は、何年前かと同じようにゲームをした。それはもう前と全く変わらず、私が圧勝して、負けず嫌いな弟は何度も何度も再戦をせがんで。最後まで私が勝ち続けるもんだから、弟は最後にはべそかきながら操作してるくらいで。あんまり笑ったもんだから私もつい涙が出て。楽しかったよ。本当に。

 

 

「そろそろ、いかなきゃ」

 ゲーム機を閉じて立ち上がると、久志はまた寂しそうな顔をした。

「あと二日くらい居てもいいんじゃないの?」

「日本ではぜんっぜん浸透してないからね」

「それならお盆こそ、もっと居てくれればよかったのに」

 どうやら、二ヶ月前のことをまだ根に持っているらしい。たしかに、あの時は会話もなかったか。もう問題ないと思ってたのに、顔を見たらやっぱり余裕なくなっちゃったんだった。今日はもう大丈夫だけどさ。まあ、そんな情けない姿を久志には知られたくないし、適当にはぐらかすことにしよう

「あれさ、牛と馬の順番間違えちゃったんだよね。来年から気をつける」

「嘘だろ。もう二度と作ってやんないから」

「えー、お願い。今日だって、ジャック・オ・ランタンの灯のお陰で来られたのに。あと美味しかったし」

「それ後半が本命なんじゃ……。あーもう、分かったよ。もっと立派なの作るから、次もちゃんと帰ってこいよ」

「もちろん!」

 

 玄関を出ようとしたところで、最後にもう一度だけ振り返る。お盆や今日以外にも、また帰れるといいんだけど。

 

「あ、ちょっと待って。」

 玄関のドアを開けようとした私を、久志が呼び止めた。差し出されたのは、コーラ味のグミ。噛みごたえ抜群のハードタイプ。

「姉ちゃん、こういうの好きだったろ。持っていきなよ」

 

……お菓子あんじゃん」

「そ。だから、悪戯は勘弁してくれ

「あー、降参。わかったわかった」

「あともっと普通の格好で着て。それに差し入れもいらない。それと……

「わかったってば」

 グミを受け取って、今度こそ家を出る。久志は笑っていた。また泣いてぐずるかと思ったのに。

 

 ……変わらない変わらないと思っていたけど、本当は変わっていたんだな。

 久志は成長している。背は伸びたし、美味しいご飯も作れるし、気遣いなんてできるようになるし。これからも、もっと変わっていくんだろう。あの日、目玉焼きを作ろうとして卵を買いに行って、そのまま車に轢かれて帰らなかった、享年十七の私とは違う。

 

 

「「トリック・オア・トリート!」」

 

 ふと聞こえてきた、賑やかな声の方に自然と顔が向く。まだ小学生くらいの姉弟が、お菓子を詰め込んだ籠を片手に楽しそうに駆けて行った。姉の方はつばの大きな魔女の帽子を被り、弟の方は包帯をぐるぐる巻きにしている。元々外国から伝わった行事だし、やっぱり洋風の仮装がメジャーみたいだ。でも、今日はただお菓子をもらえるお祭りの日じゃないってこと、知ってる?

 

 

 十月三十一日。ハロウィーンジャック・オ・ランタンの灯りを頼りに、霊が家族の元に帰る日。日本ではあまり有名じゃないけどね。

 今度はお父さんとお母さんにも、ゆっくり会いたいな。玄関先に置かれたジャック・オ・ランタンをそっと撫でる。少し汚してしまったワンピースを、白装束のようにはためかせて一歩踏み出した。

糖分補給

 ふと目を離した隙に、シャーペンがポッ○ーになっていた。

 

 

 こう言ったところで誰も信じないのは勿論分かっている。事実、自分が他人に言われたとしても、まず間違いなく疑うだろう。夢でも見ているんじゃないか?現実逃避をするな、早く目の前の問題に集中するんだ。自身にも何度そうやって言い聞かせたことか。だがしかし、本当に混乱している時、人は何事にも集中できなくなる。よって冷静さを欠いた自分は、中間考査の真っ只中にも関わらず、ただ呆然としているのだった。

 

 周りを埋め尽くしているはずのペンを動かす音すら耳に入ってこない。時計を見て、あと分もないことを知っても焦る余裕もない。取り敢えずテストが終わった後で考えようと思って、思考を切り替えようとした結果、やはり自分の元シャーペンを見つめたまま動けなかった。

 何度だって言おう。気がついた時にはもう既に、ペンがポッ○ーになっていた。持っていたはずのペンが、チョコレートをかけた細長いスティック菓子と化していた。菓子だけに、とか下らない思考にコンマ数秒の時間を無駄にする。自分としては極細の方が好きなのだが、あいにく何の変哲もない、普通のやつだ。ちょうど持っている部分がチョコのかかっていない剥き出しの部分になっているので、幸い手にチョコはついていない。それに、この教室には冷房が効いているので、今のところ溶け出すような気配も見られない。

 

 何故こんなことが起きたのだろう。今から二十分前、この現象に気がついた直後のこと、考え始めた自分は一つの仮説を思いついた。つまり、

 

 夢オチなのではないだろうか、と。

 

 だってあり得ない、シャーペンはシャーペンだしポッ○ーはポッ○ーだ。こんなことは今までの人生約十七年で見たことも聞いたこともなかった。となれば、現実でないと考えるのが一番自然なこと。そう、これは夢の中なのだ。そう考えれば渋々ではあるが、納得がいかないこともない。

 いや、ちょっと待て、と十五分前の自分が待ったをかけた。確かに現実味がなさすぎる、かと言ってこれは本当に夢なのか?朝起きてから今までの連続した記憶がはっきりあるし、これだけ意識しても一向に覚める気配はない。自分が明晰夢を見られるような器用な人間ではなく、夢と悟った瞬間目覚めてしまうタイプの人間であることも分かっている。極め付けには、頬を抓ると痛かった。ここまでくると、流石に夢とは考え難い。

 じゃあこれならどうだ、と分前の自分が主張する。曰く、

 

 最初からポッ○ーだったのではないだろうか』、と

 

 そう言えば昨日、試験勉強の糖分補給のためにコンビニでいくつかお菓子を買い漁ってきた覚えがある。その中にポッ○ーもあったような気がしなくもない。食べている最中に何らかの手違いで筆箱に入れてしまい、それをシャーペンと間違えて取り出して、ようやく気がついたのが今という訳だ。自分は完璧な人間という訳ではない。徹夜の試験勉強できっと頭が混乱していたのだろう。

 何を言っているんだと、しかし分前の自分が呆れかえった。これは二時限目、しかも開始から数分が過ぎたタイミングだった。解答用紙にはちゃんと名前も、大問一の答えも書き込めている。試験開始時点では、たしかにシャーペンだったのだ。それに、自分が買ったポッ○ーなら極細であったはず。よって今手に持っている普通の太さのこれは別物だ。そもそも筆箱の中にポッ○ーを入れて持ち歩いていたのなら、中で折れてしまっているに決まっている。やはり自分が最初に持っていたものはシャーペンだったのだ。

 

 しかし現実としてこれがポッ○ーであることを、現在の自分は理解している。突然超能力を身につけた?あまりに突拍子もなさすぎる。目にも止まらぬ速さで誰かに悪戯された?試験中にわざわざそんなことする奴がいてたまるか。考えても考えても全く答えに辿り着く気がしない。そもそも答えなんて存在するのだろうか?何の理由もなくある日突然シャーペンがポッ○ーになるくらい、実は日常茶飯事だったのではないだろうか。いや、流石にそんなことはなかった。考えすぎでまともな思考ができなくなっていたようだ。しかし、一体全体なんでこんなことに──

 

 チャイムが、鳴った。

 

 

 試験終了。後ろから来た解答用紙の束に、割ほどしか埋まっていない自分のものを載せて回す。前の席の友達が、珍し気な顔でこちらに視線を向けた。試験監督の先生による答案確認が終わるのを待たずに、小声で尋ねてくる。

 

「今回どうしたの?随分調子悪いじゃん」

「いや、シャーペンがポッ○ーに……

「あーもう、だから徹夜はやめとけって言ったのに」

 

 ほら、信じてもらえない。まあ分かってはいたのだが。なんせ自分だって未だに半信半疑なのだから。

 ともかく、本日の試験はこれで終了だ。色んな意味で、とは敢えて言わないでおきたいところである。明日は念のためシャーペンを二本机の上に出しておこうと決意して、帰り支度を始めた。机の上には、やはりポッ○ー。ほんの出来心で、先を齧ってみる。

 ……極細以外も、案外悪くないかもしれないな。サクサクサク、と結局一本食べ切って、あとで胃の中にシャーペンが出現したらどうしようと恐れつつ鞄を背負ったのだった。

 

 下駄箱では既に、他クラスの友達が待っていた。待たせてごめん、と軽く手を合わせ、急いで靴を履き替える。話の種はもちろん、今日の試験についてである。自分の出来は散々だったのであまり思い出したくもないのだが。どうせ言い訳と思われるので、ポッ○ーのことは言わなくてもいいだろう。

 

ちょっとトラブルあって、もう駄目だった。白昼夢すら見えたし……。で、そっちの出来はどうだった?」

こっちも無事死亡。途中で飽きちゃったしお腹空いてきちゃってさ。あー、今このシャーペンがポッ○ーにならないかなー、て思いながらずっと解いてた。ま、そんなこと起きるわけないんだけどね!」

 

 ……

 

「お前のせいか!!!

「えっ、何、ごめんなさい?!」

 

 この後、駅に着くまでの分ほどにわたり懇々と訴えるも、当たり前のように信じてもらえなかった。むしろ寝不足やエナドリの飲み過ぎを心配されたほどである。心外だ。が、試験はまだまだ続く。明日以降はくれぐれも試験中に変なことを考えないように、と念を押して別れた。相手はよく分かっていなそうな顔をしていたが、どうか試験に集中してほしい。

 無論、この友達が犯人だというのもまた滅茶苦茶な話である。リアリティがないことには何も変わりがない。しかし、まあ、厄介ごとに対して都合のいい責任転嫁先が見つかったならば、全力で押しつけようとするのが自分、ひいては人間というものだろう。コンビニに立ち寄って買った普通の太さのポッ〇ーを齧り齧りそう納得付けて、いっそ清々しいほどの気分であった。今夜はよく眠れそうだ。

 

 

 そして迎えた翌日。結局爆睡してしまったので、暗記についてはノーコメント。だが今日用意したシャーペンは二本、これで万一の事態にも対応できるだろう。昨日消失したはずのシャーペンも、いつの間にか筆箱の中に戻ってきていた。チャイムと共に試験開始、名前を書いて問題を解き始める。大問一はまだ簡単な部類だ。記述途中でうっかり書き損じをしてしまい、直そうと消しゴムに手を伸ばして。

 

 

 指先に触れたのは、チ○ルチョコだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

あとがき

 こんにちは。卯月望です。

 勉強でもそうでなくても、考え事をするにはものすごく糖分を使いますよね。そんな時にはあまり気を張り詰め過ぎず、適度に補給すべきではないかと思います。もちろん摂り過ぎは虫歯にもつながるので厳禁ですが、息抜きも大切ですよね。課題やらなにやらに追われる日々ではありますが、たまにはゆっくり休んでください。