都立武蔵文芸部 デジタル部誌サイト

都立武蔵文芸部の部誌のデジタルVerです。個々の作品を掲載します。予告なく作品の変更・削除を行う可能性があります。ご了承ください。

ゴーストライター


 子どもにつける名前の質が問われているこの世の中。光る宇宙で「ピカチュウ」、泡の姫で「アリエル」などと名付ける、頭のネジをいくらか母の体内に置いてきたやつらが一定数存在する。彼らの思考は理解ができなかった。
 だが、そこまで異常とは言わなくても近年の命名傾向は変わってきている。愛、夢、希、優、星、歌――学校の名簿の上でそういった字が光り輝いている。目を通すだけで頭痛が起きてしまう。愛や希望や夢を名に込めることで将来を輝かせるつもりなのだろう。
 名前の役割としてはそれは理にかなっている気もする。この世界は「愛」と「優」「希」が友達になる時代だった。

 ――ひとり、そう思いながら、恐らく三杯目の珈琲を飲み干した。カップの底にこびりついた汚れとは三度戦った。つい二時間前に四回目の白旗を揚げた。セロハンテープで仮止めされたエンターキーを押す。寿命を向かえた彼らを酷使し続けるのはこの者の職業柄、仕方がないことだった。
 部屋の主は水流と名乗っていた。それは本来の持つべき名ではない。だが、最近は本当の名前よりも水流と名乗る機会の方が多かった。
 水流泉というその名前――水がつく名前は縁起が悪いとされるが、全て揃えることでかえって縁起を良くなるのではないか。そんなつもりでつけた。
 その由来を語る相手は誰一人ともいない。二年前に母は死んだ。妹とはしばらく顔を合わせていない。毎日会うような、ネット越しの相手に求める気はなかった。

 画面の奥に広がる白い土地と黒の字の群れ。つい三分前、水流は主人公の妹を殺した。殺さないといけないと思ったからだ。そうしないと主人公は物語を進めない。何一つきっかけなく、のうのうと生きるだけの人間はこの次元に必要はない。何かしら、きっかけを得て変わってもらう必要がある。
 妹を殺したところで主人公は慟哭した。だが彼の思いはどうも描けない。悲しんでいるのか、怒っているのか、どうも想像がつかなかった。
 傍のカップを持ち上げる。中身はとうにない。机の上に広がる銀紙はチョコレートの一つも乗せていない。腹に手を当てればいいようのない不快感を感じた。気付けば、外は暗くなっていた。

 車が通る。間隔は一定だ。信号を待つ水流は赤いランプではなく、手にした古いスマホを目にしていた。ツイッターのトレンド画面は二時間前からそれほど変動していない。あるタレントが新曲を発表しただの、今晩都市伝説番組がやるだの、特に興味のない内容が並んでいた。人が何人も死んだという物騒な事件はなかった。
 数週間前まで中学生による殺傷事件が起きたというのに、世間はもうそんなことに構う暇はない。サイコパスの中学生よりもタレントの新曲の方が重要なのだ。興味というのは向けられたと思ったら気付けばもう消えている。そう考えると小説で新人賞を取って有名になりたいという自分の夢もくだらなく感じられた。諸行無常とはよく言ったものだった。

 プラスチックの袋に収められたインスタント珈琲の粉と、眠気覚ましのガム。さて小説の続きはどうしようかと日のない道を進む。最寄りのコンビニと自宅を行き来するのに五分も必要なかった。アパートの錆び付いた階段から消えることのない明かりは目につく。だが、今日は少しばかり違った。
「まだいる」
 アパートの隣には公園がある。少子化を反映してか、鬼ごっこすらまともに出来ないような小さな公園だ。水流はそこで子どもが遊んでいるのを見たことがない。近くの会社に勤めるOLがそこで昼飯を食べているのをたまに目にする程度だった。
 だが最近は別の者が陣取っている。それは成人もしていないような若い女だった。髪は遠目でも分かるほど鮮やかな桃色、ワンピースは仮装でもしているのかと言わんばかりに何重もフリルがつけられている。赤いリボンで髪を束ね、高いヒールの靴を履くその姿はどう見ても異質だった。別の国の言葉を話したとしても驚きはしないだろう。
 驚くべきなのは容姿だけではない。彼女はまるで、縛り付けられているようにベンチに座り込んでいる。三日前からずっと、そこにいた。日が沈んでも、また昇っても、構うことなくそこにいる。死んでいるのではないかと思ったが、見るたびに体勢は変わっていた。
 当然、気味が悪くて誰も近寄ろうとしない。警官は呼び止めないのだろうか。不安と興味が入り交じった顔で彼女を見る。当然こちらに背を向けているため、本人が水流のことを気づきはしない。
 ポケットから鍵を取り出そうとするが、水流は毒づいた。ここになって歯磨き粉を切らしていて、買い忘れたということに気付いた。ほぼ帰宅したようなものだから明日行こうとも思ったのだが、重い腰を上げるのは今行くよりも数倍労力を使う。
 十五秒の思念の末、階段を下り始めた。一日に二度もあの女を目にするのは初めてだった。
「――紙袋の中には脅迫文に加え、動物の毛が入っていた」
 狐毛の女。A市の女児誘拐事件、都立B高校の窓ガラス爆破事件といった事件で世間を騒がした犯罪者。だが彼女は不可解な行動ばかり起こしている。
 子どもを誘拐し、身代金を求める――だがそれと同時に子どもを解放した。子どもに危害一つ与えず、警察と子どもの親をひどく混乱させただけだった。
 そしてもう一つ挙げられる事件と言えばこれだ。Rayという歌手のコンサートを中止せよという旨の脅迫文と、狐らしき動物の毛を大量に入れてばらまいたのだ。尋常じゃないのはその量だった。役所という名がつく場所全てに送りつけた。ただコンサートを中止しなかった場合の報復などは一切明記しておらず、Ray本人はコンサートを行った。報復はなかった。
 何一つ実害のない事件は疑問のみ残して、三年経った今もこうして特集が組まれるほどの知名度を保つ。水流はテレビを消した。おかしい、不可解だと騒いでおいてテレビ局は何一つ進展を見せない。根拠のない仮説すらももう食いつぶしたようだった。

 口の中に残ったインスタントラーメンの味を流し、薄い布団に横たわる。小説の続きは思い浮かばなかった。主人公の妹を生き返らせようかと考える。死なせた意味があったのだろうか――眠気で意識が混濁する。
 瞼を閉じてもう開く気が失せてきた頃に、音が鳴った。部屋中に響く。がばりと起き上がる。チャイムだった。反射で起きた水流が抱くのは疑念とひと匙の恐怖だった。夜はとうに更けている。宅配が来るのには有り得ないほど遅い時間だった。第一、宅配を頼んだ記憶はない。
 机上のカッターをポケットに滑り込ませ、玄関へ向かう。のぞき穴をゆっくりと見た。その人物に見覚えはあった。だが、会ったことはなかった。ドアを開こうか迷った。そうしている内に、彼女は、もう一度ベルに手を掛けた。こんこん、と小さく扉も叩いた。
 ポケットにはカッターと、スマホ。素早く五回、電源ボタンを押せば警察に通報される仕組みになっている。扉にチェーンをかける。ゆっくり、開けた。
「どちらさまですか」
 我ながら愚問だった。何故なら自分は彼女を知っている。彼女は自分を知らないのに。あのベンチの、異質な女だった。彼女はか細い声でこう答えた。
「あの、さっき、お財布落としたようなので」
 雨が降っているのか、湿った空気が隙間越しに流れ込む。差し出されたのは確かに水流の財布だった。歯磨き粉を買いに行ったとき、帰りに落としたようだった。小説の構成を考えるのに夢中で気付かなかった。それを受け取る。中身は一つも変わっていない。
 ありがとう、とほぼ無意識で呟いた。ぺこ、と桃色の髪が揺れた。彼女は階段に向かおうとした。あのベンチに戻るのだろうか。だが頬を撫でる湿った風が水流の意識を変える。
「ねえ」
 チェーンを外して扉を開いた。階段で立ち止まる彼女。遠くからでは見えなかった青い瞳。まるで人形だ。びしょ濡れの人形。言葉に困り、くいと親指で部屋を指さす。

「トキキザミメモリ?」
 彼女は頷いた。時刻と書いてトキキザミ、平仮名でめもり。恐らく二十数年生きていたなかで最も不可解な名前だった。
「本当の名前ではないの」
 あのベンチの女――時刻めもりはこう答えた。まだ高校生ぐらいの少女だった。水流も本当の名を名乗らなかった。
「信じてもらわなくていいんだけど、わたし、ひとから注目されないと生きていけないの」 恐らく今日は寝れないな、と思った。

 曰く、自分はひとから注目されないと死んでしまう。曰く、それ以外何も必要はない。曰く、だからこんな変な格好をしている。名前もきらきらしているのだ。曰く、親はもういない。姉がいたけどどこにいるのか分からない。曰く、一週間前、捨てられた。
 差し出されたインスタント珈琲も恐らく飲む意味はないのだろうけれど、めもりはしっかりとそれを飲み干した。お人形のような彼女の容姿も、ベンチへ座り続けるその行動も、ちゃんと理由があるものだった。
「だけど私、こんな名前はいやだし、ちゃんとした格好をしてみたいの」
 めもりの顔は整っていた。白い肌に丸いアーモンドの瞳。唇は紅を差さずとも紅い。年頃の少女なら一度は憧れる服装。だがそれが本人の意思に基づいたものでないのなら、意味はない。めもりは小さく溜息を吐いた。
「キノハナっていう名前になってみたい。木曜日の木に、野原の野。漢字で花――普通の学校に行って、制服着て、図書室でずっと本を読んでたい」
 その願望はいわゆる、普通なことだった。水流はそれに何一つ憧れを抱かない。普通ではない人間にとっては話は別だということは想像できるため、うん、と頷いた。
「学校に行ったことは」
「四回だけ。普通になろうとしたけど、駄目だった。結局身が持たなかった。全校生徒の前で音楽祭で使うピアノの弦を切ったり、休み時間に窓ガラスをぜんぶ割ったりして、退学した」
 唇を噛みしめる。彼女は少なくともその行動を喜んでやったわけではあるまい。水流は言葉を掛けられなかった。たった二十しか生きていない人間が何が出来る? 何を言える?
 俯く水流に対し、めもりは何かを見つけたような仕草を見せた。彼女の視線の先を追う。自分のパソコンが彼女の目を奪っていた。これ、といい立ち上がる。
「あなた、本を書いているの」
「まだ一度も売れたことはないけどね」
 本を書いていることは恥だと思ったことはない。逆に誇らしいと思ったことも――なかった。理由は明確だ。
「すごいわ。読んでみても?」 
「駄文だけどね」
 パソコンの使い方は分かっているのか、かちかちとめもりはキーボードを叩き始めた。白く光る画面が彼女の顔を照らす。水流はソファーに寝転んだ。珈琲は眠気との戦いに負けたようだった。
 会ったばかりの人に個人情報を蓄える電子機器を渡すのはどうかとは思ったが、それを口に出す労力は、もう、なかった。

「この子じゃなくて、ライバルの人を殺すべきだと思う」
 起きて早々そう告げられた。
 めもりは小説のすべてを目に通したようだった。そして水流が行き詰まっていた展開を変えるよう指示した――主人公の妹ではなく、ライバルに設定した人物を殺せ、と。
 キーボードに指を乗せかけるが、寸前で水流は止まる。人からのアドバイスとはいえ、そんな簡単に乗っていいものかと。慎重に言葉を口にする。
「ちなみに何で?」
「うまく言えないのだけど、そんな予感がしたから」
 人の注目がないと生きていけない、というめもりの体質が頭をよぎった。それを信じたのは、水流の気まぐれにすぎない。そうして運命はねじ曲げられた。主人公の妹を庇ってライバルは死んだ。腹に槍を抱き、主人公の慟哭を耳にしながら。

 めもりは残っていた小銭で髪を林檎のような赤に染めた。ほどくと腰までその髪が垂れる。若いバンドの女しか染めないような色。いったいめもりの髪はどれほど傷んでいるのか。
 あれからひと月が経った。めもりは水流の家に居候している。別に彼女がそれを望んだからではない。水流が望んだからだ。
 彼女のアドバイスに沿って、八割方書き上げた小説をすべて消した。主人公は男から女へ、妹の数は二人へ。死んだとされた父も生き返らせた。魔王とヒロインを血縁関係にした。
 めもりは淡々と改善点を告げていく。どこか気後れしたような様子だったのは気のせいだと割り切った。彼女はどうすれば人の注目を得られるか分かっていた。ただ、その行動を踏み出さないだけだった。
 水流は小説を書き上げた。締め切りが程近い新人賞にそれを贈った。狙っていた賞とは別の賞。それもめもりによる「アドバイス」だった。結果、その作品は大賞に選ばれた。贈られてきた百万円の半分を、めもりに渡した。
「だって、私は、言っただけ」
「けど、めもりがいないと受賞できなかった。君のおかげだよ」
 渋るめもりの手に札束を渡した。わざわざ銀行から下ろしてきたものだった。百人の福沢がめもりを見つめる。
「・・・・・・ありがとう」
 めもりは消え失せる声で呟いた。水流はパーティーに呼ばれた。出版祝いのものだった。アルコールがもう一人の立役者の存在を頭から奪った。――立役者はひとりで、キッチンに転がるインスタントラーメンを口にした。二週間ぶりの食事だ。意味がないのに食べるのは、彼を祝いたかった、から、だろう。めもりも理解できなかった。

 金があっても、全てが叶うわけではない。
 めもりの所持金はお古のトートバッグの中に入っていた。シールを一定数集めればもらえる、薄いバッグ。水流からもらったものだ。中には五百の福沢諭吉。すぐそばの開いた窓から不届き者が奪い取られる危険などどうでもよかった。目を離したらこの諭吉達が消えていようと、めもりは構わない。金さえあれば、学校に通える。質を問わずとも友達ぐらい作れる。人の注目が分かるから株取引でもやれば一晩で倍になるだろう。けど、金はめもりを慰めてはくれなかった。
 半ば倒れる形でソファーに吸い込まれる。くらくら以上の眩暈。頭痛。吐き気――半年ぶりの症状だった。眠気と空腹もひどい。胃が絞められる気分。身体を起こすと世界が回った。またこれだ、と思った。部屋に転がるカラー剤は半年前のものだ。
 今の髪の色は地のもの――変える必要はない、と思ったから、何も変えていない。頭の頂は黒い。だがそれを頼ることになりそうだ。
 同じように袖を通していないあのドレスにも協力してもらわないといけない。テーブルの上の水を飲む。それをしたって何も変わりやしないと分かっていながらも。
 どこかで電話が鳴る。固定電話だった。そこまで向かう体力も気力もない。出なくても用件は分かっている。観念したのか三回の着信音の後、メッセージを告げる旨の電子音生とそれに応えるの声が流れた。
『ごめん、今日は帰れなさそう。今あのRayさんとお食事してる・・・・・・明日の朝に帰る。何か買ってきてほしいものがあったら、連絡して』
 期待していないわけではない。
 だが、寂しかった。
 めもりは寝転ぶ。吐き気。動悸。それよりも苦しいのは、自分が独りだという事実だった。千切る勢いでソファーを握りつぶすが、痕さえも残らなかった。

「では、あの作品は水流さんの経験が元になっているのね」
 Ray――霊、冷、零。ぞっとする美貌の持ち主だった。陶器の肌に彼女のトレードマークの青い唇。歌姫と言われる所以が分かった気がする。彼女の喉から発せられる声だけではなく、その容姿さえもが人々を魅了する。彼女を失うことでこの世界がどれだけ打撃を受けるか、考えたくもない。
 水流はぎこちなく頷き、グラスを口につけた。こちらから会話の一つもできない。問われた質問に答えるだけ。まるで面接だ。
 耳たぶを貫いた黒い花のピアスが揺れる。仕事とはいえ、彼女との食事はほぼプライベートに近かった。密室が用意されたレストランで急ごしらえのテーブルマナーの披露大会。
 対して慣れているのか緊張ひとつせず食べものを胃に詰めていくRayは絵画の一場面のようだった。炭酸の泡が喉を通る。楽しめない食事が続く。
「そういえば、水流さん」
「はい」――素っ頓狂な声で返す。
「あなたは、幽霊を信じる」
「幽霊?」
 予想外の質問に面食らう。彼女の言葉をオウム返し。
「ええ――私の名前、幽霊の霊から来ているの。まあ、つまり、私は存在できるはずがないのに存在しているってこと」
 どう返していいのかわからない。口を開けても漏れるのは息だけ。ジョークなのだろうかと判断する脳さえも思考という役割を止めている。
「私は幽霊、UMA、宇宙人――などなど。あなたも私の同類にあったことがあるはず。だから知らないとは言わせないわ」
 彼女が手にしているナイフが光って見えた。ただ照明の光を反射しただけだ――言い訳しようとも脳は止まらない。恐怖を生んで、肌を粟立たせる。嫌な汗が背中を伝った。
「ねえ、水流、めもりは今、どこにいるの?」

 足音が二つ。こちらへ近づいてきた。微かな音。微か――幽か――幽霊の足音。めもりにとって幽霊は親しみ深いものだった。恐れるなんて冗談じゃない。扉が開く音。
「狭いわね
 そんな罵倒をする声には聞き覚えがあった。重たい身を起こす。ぐわんと視界が回ったが構わず、這いつくばる形で廊下の先を見た。
「久しぶり、めもり」
 お姉ちゃん、と喉が掠れる。

「まったく、貴方は、非道だわ」
 その一言で、ようやく水流は正気に戻る。
 名声に目が眩み、めもりをいいように利用し、自分のやりたいことすら忘れている。生みだしたキャラクターは何年も脳内で外の世界を待ち望んでいた。だが彼らは殻を破れずに腐った死んだ鶏の雛。金の卵を生んだのは水流ではなく、めもりだ。
ゴーストライターって的を得た言葉だと思わない? 名声を得るために利用された、幽霊みたいな私たちのことよ。どう書けば、どう歌えば、どう魅せれば、人の注目を得るか分かってしまう。生まれた赤子が本能で食べるべきものを見分けるように、私たちも本能でどこに向かえば名声が集められるか分かってしまう。そうやって生きてきた。貴方は私たちの本能を利用した。――うんざりだわ。もう、めもりに関わらないで」
 そんな、と言葉を紡ごうとしたが口を噤む。正気に戻ればもうおしまいだった。水流泉は、もう死んだ。集めた声はもう消えた。子犬のように小さく唸る。
 Rayは眠っためもりの頬を優しく撫でた。
「『したい』という欲望が『しなければならない』という義務になった瞬間、どんな夢でもそれはただの苦痛にしかならない。私たちにとって名声なんてもううんざり。夢には飽きたの。ひっそりとして暮らすことが――幽霊みたいに認知されないことが、羨ましいの。貴方には分からないでしょうね」
 吐き捨てるように呟くその女は、あのテレビ越しに微笑む歌手ではない。暗い顔で、あんな笑顔を引っ付けるのを止めて、醜く欲望を吐き捨てるだけのひと。画面の向こうで、きらきら光る世界は全て空想。スクリーンに広がる夢や魔法の世界もすべてまやかし。名声を得たいという人々の願望の結晶。水流の生みだした――いや、生みだしたかった作品もそうだ。注目されたい、という欲望のもと生まれた膿。その膿が――海が世界を覆っている。そんな世界に人々は溺れている。
「ねえ、水流、提案があるの」
 魔女が実在するなら、そんな目で、Rayはこちらを見つめた。

 初めに「Ray」「殺害」「死亡」「ナイフ」の文字がネットの海を駆け巡った。「速報」の二文字が追従しながら、テレビ画面を一つの話題に染めた。
 あの歌姫が、Rayが、死んだ。
 死因はナイフによる出血性ショック死。
 自宅付近の公園で、血を流して、倒れていた。
 明日に控えていた全国ツアーはすべて中止。

 男Aは高校生だった。スマホを眺めながら、大人達の列に足を止める。数人の列が向こうまで続いている。彼らは、男Aは、電車を待っている。いつもより人数が多かった。遅延のアナウンスは流れない。どうせ駆け込み乗車か何かで少しずつ、電車は遅れたのだ。窮屈に詰め込まれるのはうんざりだった。ただでさえ、今日は疲れているのに。
 男Aの隣に女Aがいた。彼女は大学生ぐらいの風貌で、ピンク色の髪をしていた。ちょうど男Aはこんな髪に憧れていた。今は校則と世間の目のせいで、そんな夢は出来ない。
 何故憧れているのかは――ただ、目立ちたい、そんな願望があったからだった。女Aは顔の半分以上を隠すサングラスをしていた。彼女のスカートはあと一歩で娼婦に間違えられるぐらい短かった。それは満員電車では不逞の輩を招きかねない。コスプレの文字が頭を掠める。ただ、男Aはこんなキャラクターを知らなかった。
 電車が来る。女Aも男Aも電車に乗る。ドアが閉まる――女Aは男Aの傍にいた。彼女はクマのぬいぐるみを模したリュックサックを背負っていた。そのキャラクターは見たことがあった。確か外国のカートゥーンアニメのキャラクターで――ああ、懐かしいな、妹が好きだったっけ? そのクマがカッと光った。気がした。気のせいではなかった。
「私は――トキキザミメモリ」
 クマが光る直前、女Aはそんなことを叫んでいた。男Aも男Bも男Cも女Bも女Cも男Eも男Hも女Rも男Zも――女Aに、注目した。

 彼女は足を引きずりながら夜道を歩いていた。
 今日の昨日に苦しめられていた頭痛も吐き気も眩暈も何もしない。爽快の二文字が体中を巡っている。心臓を動かすたび、血が身体を這うたび、言葉に表すことの出来ない心地良さが身体を包んでいく。息を吸っても甘く軽やかな気分がした。こんな心地は、初めてだった。「あの子はよくやったわねえ」
 慟哭する。崩れ落ちる。誰も構わない、ひとりの幽霊がこちらを向いていた。
「なんで泣くの。あいつも貴方も私も、人々の注目を集めた。これで貴方はもう死なない。私はもう肉体がぼろぼろになっちゃったから、もうこのままでしょうね。事件が風化すれば私も休めるのかしら」
 道路に滲み。ひとつ、ふたつ。赤いのもみっつ。時刻めもりと、Rayと、水流泉は、今なら皆の注目を奪っている。老若男女すべての注目だ。この電子の海に囲まれた世界に住む人間なら、三人のことに否が応でも目を奪われる。
「ねえ、私の妹よ、聞いて。あの人も私も貴方も得をしたの。皆注目を集めたのよ。誰も村をしていないじゃない。なのになんで、そんなに、泣くの?」

 水流泉の本当の名は、木野ハナといった。めもりの望んだ名とは偶然に一致していた。もしかしたら、運命だったかも知れないが、それを知る術もないし知る欲もない。
 めもりはあの暗い部屋で知った。彼女――木野花は、小説家になりたかった。この世界に名を残したかったからだった。彼女の夢は結局叶った。彼女は歌姫を殺め、罪のない一般人を巻き込む形で焼身自殺をし、最期に自らを時刻めもりと名乗った。犯罪者として、狂人として、この世界に名は残った。
 彼女が最期にめもりと名乗ったことで、時刻めもりの名も注目を集めている。生気を感じる。本物のめもりは道で吐いた。後ろにいる幽霊――Rayは、心底不思議そうな顔をしている。Rayも殺されたことで注目を得た。
 誰もが、注目を集めている。めもりはめもりという名で生きることが許されない。
 木野花なんて願った名を名乗る運命だ。いつぞやに、適当に名乗った名は、水流にとってどう思われたのだろうか。彼女の名を一つ借りる。当分時刻と水流の名は忘れることがない。
 それは、めもりにとって、――木野花にとって、慎ましく生きる分には、十分すぎるほどの注目だった。