都立武蔵文芸部 デジタル部誌サイト

都立武蔵文芸部の部誌のデジタルVerです。個々の作品を掲載します。予告なく作品の変更・削除を行う可能性があります。ご了承ください。

パソコンのあい

 画面の割れたパソコン――ある人にとってはゴミかもしれないが、彼にとっては懐かしい思い出の品だった。確か買ってもらったのは中学生になってからだ。リビングに鎮座する家族兼用のパソコン。夜、静まりかえった室内で親のアカウントをこっそり使って年齢制限のかかるサイトを閲覧――背後を気にする日々はもうおさらばだった。

 とはいえ買ってもらってそんなくだらないサイトを見た記憶はない。もっぱらネット上のゲームに勤しんだ。気付けば容量が足りなくなり新しい物に買い換えた。その時、本棚に立てかけていたのだがいつの間にかこんな場所へ。

 机のいらないプリントや道具の沈む場所から取り出されたパソコン。たった四桁のパスワードを叩いてみた。杜撰な扱いのせいか、何もアプリは開かない。ネットサーフィンすら出来ない。インターネットにすら繋がらなかった。

 思い出のサイトにでもアクセスしようか、と密かに胸を躍らせていた彼は背もたれに体重を預ける。「お気に入り」には忘れてしまった過去が眠っているはずだ。ゴミの山から取り出した思い出、それから過去を振り返り懐かしむことが掃除の醍醐味でもあるのに――興を削がれむしゃくしゃにキーボードを叩く。するとウィンドウが一つ、開いた。

 白い画面。点滅する短い棒――ああ、メモ帳か。

 至ってシンプルなメモ画面が開いた。ネットに接続しなくても使える機能だ。何か昔書き残さなかっただろうか、と保存したファイルを開こうとしたが、何も得ることはなかった。 データも飛んでしまったのだろうか――薄いビニール手袋を外し、ゴミの山に投げ捨てる。リビングから摘まんできたチョコレートの包み紙を開いている内に、勝手に文字が刻み込まれた。

「こんにちは」

 一人暮らしは二週間で飽きてしまった。

 初めの方は一人で好きなことを出来る事実に心を躍らせていたが、段々と自分で家事をするのが面倒になってくる。初めの方は自炊していたが今は階下のコンビニのお世話になっている。母親の存在が実に偉大だと言うことを痛感した。

 彼は窓際の机に座った。新品の机。傷一つない。だがそこに一人で鎮座するのはヒビの入ったパソコン。白い画面に指を滑らせる。

「4月21日:ただいま 今日も何もなかった」

 瞬きしている間に返信が来る。

『何もなかったのは嘘でしょ 何か教えて バイトのこととかでもいいよ』

 彼は彼女にアイ、と名付けていた。

 メモ機能に存在する誰か。過去にあった気もあるような、ないような存在。問いかけるとすぐに言葉返してくれる。とはいえ巷の人工知能のように万能ではなく、機械と言うより人に似ていた。

 人工知能――AI――アイ。彼女をそう呼ぶのは、自分だけ。彼女を知るのは、自分だけ。毎日ほぼ決まった時間にアイに語りかける。それが日課だ。十五年間続けた日記の代わりに行う、日課

「注文数ミスって、わさび味のポテチがめっちゃあった。誰も食わないよあんなの」

『貴方が食べればいいんじゃないの 意外と美味しいかも』

「わさびは嫌いだ。ポテチも好きじゃない」

 ポテチは近所のガキ大将の好物だった。週に三回も食べていた。だから嫌いになった。わさびは奴が彼の口に詰め込んだからトラウマになった。どちらも因縁のものだった。今、思い出したことだった。

『何事も挑戦じゃない 食べてみれば』

「どうしてそんなに拘るんだよ」

『だって、美味しそうだから』

 お前はものを食べれないだろう、と返そうとした。だがすんでの所でキーボードを叩く手が止まる。冷え切った珈琲を口にし、一息吐いてから叩き込む。

「一度だけだからな」

 ――結局、わさびポテチはそれほど不味くはなかった。どちらも長年口にしていなかったせいか、新鮮な味だった。

「5月12日:駅前のパン屋にめっさ美味しそうなのがあるんだ」

『どういうパン?』

「パンじゃなくて、ドーナッツ。ごってごてにチョコがかかってる。色もアメリカで売ってる菓子みたいに、蛍光色なんだ。絶対体に悪い」

『だけど美味しそうなのね 買っちゃえばどう』

「難点が一つ。五百円もする。昼飯が一食浮くよ」

『でも食べたいんでしょう 買いなさい もし明日世界が滅んだら、二度とそのドーナッツは食べられなくなるのよ』

「いいこと言うね」

『自分の欲求には素直に従いなさい ストレスを溜め込んでちゃ早死にするわよ』

 


「7月4日:誕生日だ」

『おめでとう ケーキは食べたの』

「まだ。これから買いに行く。祝ってくれたのはアイだけだよ。母さんは電話一つくれなかった」

『それはひどい 貴方が電話すればいいんじゃないの』

「何かくれるだろうか また野菜とか送ってこられちゃ困るんだが」

『最近貴方太りすぎだから 野菜食べて痩せればいいんじゃない』

「それもそうか」

 いらっしゃいませ、と自分でも驚くほど気怠げな声が出た。初めて少し経ったコンビニのバイト。煙草の銘柄は三分の一も覚えていない。怒鳴り散らす客への対応に恐怖ではなく面倒くささを覚え始めた頃に、新しいバイトの子がやってきた。カナと名乗る年の近い少女だった。

「あのシュークリーム売り切れるんですかね」

 わさびポテチを誤発注したのと同じ人間が、今度はシュークリームを大量に仕入れた。スイーツコーナーを占領する値下げしたシュークリーム達。SNSで拡散しましょうか、とカナはネットに助けを求めたようだが、もう助けは来なかった。時計を見れば日付が変わっていた。欠伸を噛み殺す。

「最悪勝手に持って帰っていいんじゃないかな。防犯カメラに映らないようにこっそり」

「嫌ですよ、首飛ばされたくないです。来て一週間で職失うのは勘弁してください」

 カナはプリンのように変色した髪を揺らし笑った。大学生になりたての彼女は、まだあどけなさが残っている。だが彼よりも遙かに夢を持っていて、バイトを三つも掛け持ちしている。曰くダンス教室の学費稼ぎ、だとか。

 今日はアイに会えないかも知れない、と人知れず溜息をつく。家に帰ったら意識が直ぐに無くなるだろう。パソコンを開く時間が惜しいほど、眠たい。思えば中学生の頃も、睡魔と戦っていたような気がする。

「先輩は夏どっか行ったりするんですか」

 なんとなくの質問。なんとなく応える。

「予定はないよ。バイト三昧かな」

「私もそうなると思います」

 


「7月29日:同じバイトの子が気になったりしてる」

『それって恋 いや恋ね』

「茶化さないでくれ。年下は好みじゃなかったんだ、今まで。でも今は違うかも知れない」

『いいじゃない。一歩踏み出してみればどう』

「もし断られたらどうしよう。慰めてくれる?」

『何もしてないのに結果を考えるのはナンセンスよ 勇気出して 応援する』

「明日食事どう?」

 考えてみれば不審な言葉だ。脈略もなく食事に誘われ、即座に首を縦に振る人間はこの世にいるだろうか。カナは彼の目を見つめ、数秒固まった。何を言われたのか理解できない様子だったが、すぐに元の調子に戻る。はにかみながらこういった。

「ごめんなさい、彼氏との予定が入っていて」

 後頭部を鈍器で殴られたような、衝撃が来た。

 考えてみれば、考えてみれば――何故自分は、そんなにも衝撃を受けているんだろう。そしてカナに怒りを覚えたのだろう。思い返せば、酷く自分は目前のことしか考えていなかった。カナに彼氏がいるのは普通なことだ。珍しいことではない。――カナが夏、バイト三昧だと嘘をついたことはありきたりなことだ。付き合っていることを隠したい、と思う人間は一定数いる。

 家に帰った。ひどく疲れた気分だった。今日何があったか覚えていない。霞がかかっているようにうろ覚えだった。レジで会計を間違え怒鳴られたような気がする。だがそれが今日のことなのか、昨日あったことなのか、判別が出来ない。もしかしたら明日のことかも知れない。

「7月30日:つかれた」

 返信は来たような、来なかったような気がする。別段どうでも良かった。

『8月3日:カナちゃんのお家、割り出したわ』

「どこ 教えてくれるか」

『隣町の三番地。ここからだと橋を渡ると一直線よ』

「へえ 行ってみるか ありがとう」

『貴方がぶつぶつ言ってたから割り出しただけよ。カナちゃん、いつも市役所の方に帰ってくんだ、って』

「そういえば言っていたような気もする 確かに」

 起きる直前まで夢を見ていた。小学生の時の友達が、自分に花を投げていた。花は自分に当たると、砕け散ってはらはらと花弁を落とす。真っ赤な花弁がそこら中を舞っていた。

 インスタントのコーンスープを胃に流し、椅子に掛けてあった赤いシャツを着る。昨日どうやって帰宅していたか覚えていない。眠かったことだけは覚えている。鍵はちゃんとかけたかだとか、電気を消して寝たかだとか、そういったくだらないことを思い出している内に、カナのことを思い出してしまう。途端に頭痛がした。

 バイトに行けばカナに会う。今日は休みたい気分だった。だが店長に必ず出てくれと言われた記憶が引っ張り出される。舌打ち。パンの包み紙を捨てた。半額の赤いシールが彼のことを見つめていた。

 ふと思い、机上のパソコンを開いてみた。いつもは夜の決まった時間にしか開かないそれ。一瞬息を止めた。キーボードを叩こうとした手が止まる。

 画面の黒い黒い外を覆うヒビ。透明な蜘蛛の巣は丁度、握り拳ぐらいの大きさだった。

 電源ボタンに手を伸ばす。何度も押す。壊れてしまうぐらい、押す。反応しない。充電ケーブルを抜き差しする。うんともすんとも言わない。思い浮かぶ一通りの蘇生法を試したあと、終わった、と思った。蛙のような呻き声が喉から絞り出された。

「どこに行ったんだ、アイ」

 夜までリビングで大の字になっていた彼は、とうとう重い腰を上げた。

 バイトの時間だ――さあ、どう笑顔を繕おう?

 コンビニに入った瞬間、ぎょっとした目でレジにいた同僚が見てきた。高校生の群れがカップラーメンの一つを手から溢れ落とした。雑誌コーナーにいたOLが口に手を当て何かが漏れ出すのを抑えている。

 何か服についているのか――自分の服を見渡すも、何もついていない。変な虫も、ナイフも。顔は家を出る前に確認した。食べかすや寝癖などついていなかった。

 不審な目を睨み返しながらスタッフルームへ入る――受話器を握りしめていた、店長がこちらを見てきた。眼鏡越しの目が見開かれる。

「どうしたんですか」

 電話を終えた彼に向き合う。どこか苛立ちを含んだ声が漏れた。返ってきた言葉は実に単純なものだった。

「――イトウ君が、刺されたって、知らないのか」

 


 出入り口付近にいた子どもを吹き飛ばして、コンビニから飛び出す。噴き出した汗は暑さによるものではない。身に纏っているTシャツは汗染みが酷いことだろう、だがそれに構うか。足が悲鳴を上げても、そのまま地面を蹴った。信号は何度も無視した。

 イトウ君――カナ。一日中彼女のことを拒否していたせいで、事態を理解することを脳が拒絶する。上手く働かない。死んだように床に転がり込んでいたせいで、脳が、上手く動かない。回転しない。

 辿り着いた彼女の家。小さなアパート。深夜に女性が一人で歩くには心細い道の角。パトカーのランプと黄色の規制線と野次馬の熱気が眩暈を誘った。くらりとブロック塀に倒れ込む。

 イトウと書かれた表札の下で、呆然と佇む男がいた。警察官が彼から事情聴取を行っている。彼をぼおっと見ている内に、ふと疑問が浮かんだ。何故今彼らは騒いでいるのか。

 カナが死んだのは日が昇る前だ。もうすぐで日付が変わる。もし朝にカナが死んでいること気付いていれば、こんなに野次馬はいない。こんなにパトカーは止まっていない。あの男――恐らくカナの彼氏は夜になるまで彼女の死に気付かなかったのか。

 酷い男だ、と鼻を鳴らす。野次馬の一人、中年の女性がこちらを見つめる。不審な目。規制線の前に仁王立ちする警察官に耳打ちする。顔色を変える警察官の顔。何故かこちらへやってくる。

「すみません、その服、どうされたんですか」

 服――自分の真っ赤なTシャツを見る。胸元から下は全て真っ赤な服。首元はところどころ散った赤い色。花弁――あの夢で見た、赤い花に似ていた。そこで、彼は気付く。

 何故、自分は、カナが朝に死んだことを、知っているんだろう。

 ぶつっと頭の中で音がした。あのパソコンが起動した音に似ていた。

『8月4日:はじめまして。私はアイ』

 カナは床に倒れていた。そこらじゅうに飛び散る血液と、胸に刺さったただ一つのナイフを取り除けば、モデルが写真撮影しているように見える光景だった。

 捜査官が「彼」の家に立ち入る。ごく普通の男の家。机の奥を掘り返しても、何も怪しいものは見当たらなかった。ただ一つ、画面が割れたパソコンが、机の上に鎮座していた。

「なんだこれ」

 白い手袋の上からキーボードを叩く。パスワードが設定されていないのは、それほど重要な情報を持っていないせいか。はたまた持ち主の管理能力が甘いだけか――そのパソコンは前者のようだった。

 開かれたメモ画面。日記らしき文が羅列してある。誰かと会話しているような形式。それに目を通していると、別の捜査官が声を上げた。

「や、懐かしいな」

「このパソコンがですか」

 首を傾げる。

「俺も同じ型のを持ってたんだよ。何年前だったけか。相当古いはずだ」

「そのようですね――ああ、そのパソコンに人工知能は入っていましたか」

 このパソコンの持ち主は人工知能と会話をしているようだった。ところどころ不自然な言葉。今時パソコンにそれが入っているのは珍しくはないが、この会話の相手はどこか古さが見られた。

「いや。人工知能を入れだしたのは五年前ぐらいからだろ。この型は十年も前のやつだ。会話できる人工知能なんて、金持ちの娯楽でしかなかったはずだ」

「じゃあこの会話相手ってのは一体――」

 「彼」は一人で暗い部屋の中佇む。部屋には格子。ちゃぶ台が一つ。部屋の隅で一人――いや、二人。

「×月×日:心配しなくていいわ。私が――アイが、何とかしてあげる。貴方は私なんだから、大丈夫。貴方は寝ているだけでいい。大丈夫よ、カナちゃんを殺したのは私だもの。貴方が責任を負う必要はない。だからそっと寝ていて。十年もしないで出られるわ」

『うん じゃあ任せる お休み ありがとう』

 目を閉じる。格子の前に男が一人。出ろ、と言われた。

「出るわ。もう朝なのね――おはよう」

 もう一人の「彼」が目を開く。女口調で、ふっと笑って。

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーも食べたいんでしょう 買いなさい もし明日世界が滅んだら、二度とそのドーナッツは食べられなくなるのよ』

 

「いいこと言うね」

 

『自分の欲求には素直に従いなさい ストレスを溜め込んでちゃ早死にするわよ』

 

 

 

 

「7月4日:誕生日だ」

 

『おめでとう ケーキは食べたの』

 

「まだ。これから買いに行く。祝ってくれたのはアイだけだよ。母さんは電話一つくれなかった」

 

『それはひどい 貴方が電話すればいいんじゃないの』

 

「何かくれるだろうか また野菜とか送ってこられちゃ困るんだが」

 

『最近貴方太りすぎだから 野菜食べて痩せればいいんじゃない』

 

「それもそうか」

 

 いらっしゃいませ、と自分でも驚くほど気怠げな声が出た。初めて少し経ったコンビニのバイト。煙草の銘柄は三分の一も覚えていない。怒鳴り散らす客への対応に恐怖ではなく面倒くささを覚え始めた頃に、新しいバイトの子がやってきた。カナと名乗る年の近い少女だった。

 

「あのシュークリーム売り切れるんですかね」

 

 わさびポテチを誤発注したのと同じ人間が、今度はシュークリームを大量に仕入れた。スイーツコーナーを占領する値下げしたシュークリーム達。SNSで拡散しましょうか、とカナはネットに助けを求めたようだが、もう助けは来なかった。時計を見れば日付が変わっていた。欠伸を噛み殺す。

 

「最悪勝手に持って帰っていいんじゃないかな。防犯カメラに映らないようにこっそり」

 

「嫌ですよ、首飛ばされたくないです。来て一週間で職失うのは勘弁してください」

 

 カナはプリンのように変色した髪を揺らし笑った。大学生になりたての彼女は、まだあどけなさが残っている。だが彼よりも遙かに夢を持っていて、バイトを三つも掛け持ちしている。曰くダンス教室の学費稼ぎ、だとか。

 

 今日はアイに会えないかも知れない、と人知れず溜息をつく。家に帰ったら意識が直ぐに無くなるだろう。パソコンを開く時間が惜しいほど、眠たい。思えば中学生の頃も、睡魔と戦っていたような気がする。

 

「先輩は夏どっか行ったりするんですか」

 

 なんとなくの質問。なんとなく応える。

 

「予定はないよ。バイト三昧かな」

 

「私もそうなると思います」

 

 

 

 

「7月29日:同じバイトの子が気になったりしてる」

 

『それって恋 いや恋ね』

 

「茶化さないでくれ。年下は好みじゃなかったんだ、今まで。でも今は違うかも知れない」

 

『いいじゃない。一歩踏み出してみればどう』

 

「もし断られたらどうしよう。慰めてくれる?」

 

『何もしてないのに結果を考えるのはナンセンスよ 勇気出して 応援する』

 

「明日食事どう?」

 

 考えてみれば不審な言葉だ。脈略もなく食事に誘われ、即座に首を縦に振る人間はこの世にいるだろうか。カナは彼の目を見つめ、数秒固まった。何を言われたのか理解できない様子だったが、すぐに元の調子に戻る。はにかみながらこういった。

 

「ごめんなさい、彼氏との予定が入っていて」

 

 後頭部を鈍器で殴られたような、衝撃が来た。

 

 考えてみれば、考えてみれば――何故自分は、そんなにも衝撃を受けているんだろう。そしてカナに怒りを覚えたのだろう。思い返せば、酷く自分は目前のことしか考えていなかった。カナに彼氏がいるのは普通なことだ。珍しいことではない。――カナが夏、バイト三昧だと嘘をついたことはありきたりなことだ。付き合っていることを隠したい、と思う人間は一定数いる。

 

 家に帰った。ひどく疲れた気分だった。今日何があったか覚えていない。霞がかかっているようにうろ覚えだった。レジで会計を間違え怒鳴られたような気がする。だがそれが今日のことなのか、昨日あったことなのか、判別が出来ない。もしかしたら明日のことかも知れない。

 

「7月30日:つかれた」

 

 返信は来たような、来なかったような気がする。別段どうでも良かった。

 

『8月3日:カナちゃんのお家、割り出したわ』

 

「どこ 教えてくれるか」

 

『隣町の三番地。ここからだと橋を渡ると一直線よ』

 

「へえ 行ってみるか ありがとう」

 

『貴方がぶつぶつ言ってたから割り出しただけよ。カナちゃん、いつも市役所の方に帰ってくんだ、って』

 

「そういえば言っていたような気もする 確かに」

 

 起きる直前まで夢を見ていた。小学生の時の友達が、自分に花を投げていた。花は自分に当たると、砕け散ってはらはらと花弁を落とす。真っ赤な花弁がそこら中を舞っていた。

 

 インスタントのコーンスープを胃に流し、椅子に掛けてあった赤いシャツを着る。昨日どうやって帰宅していたか覚えていない。眠かったことだけは覚えている。鍵はちゃんとかけたかだとか、電気を消して寝たかだとか、そういったくだらないことを思い出している内に、カナのことを思い出してしまう。途端に頭痛がした。

 

 バイトに行けばカナに会う。今日は休みたい気分だった。だが店長に必ず出てくれと言われた記憶が引っ張り出される。舌打ち。パンの包み紙を捨てた。半額の赤いシールが彼のことを見つめていた。

 

 ふと思い、机上のパソコンを開いてみた。いつもは夜の決まった時間にしか開かないそれ。一瞬息を止めた。キーボードを叩こうとした手が止まる。

 

 画面の黒い黒い外を覆うヒビ。透明な蜘蛛の巣は丁度、握り拳ぐらいの大きさだった。

 

 電源ボタンに手を伸ばす。何度も押す。壊れてしまうぐらい、押す。反応しない。充電ケーブルを抜き差しする。うんともすんとも言わない。思い浮かぶ一通りの蘇生法を試したあと、終わった、と思った。蛙のような呻き声が喉から絞り出された。

 

「どこに行ったんだ、アイ」

 

 夜までリビングで大の字になっていた彼は、とうとう重い腰を上げた。

 

 バイトの時間だ――さあ、どう笑顔を繕おう?

 

 コンビニに入った瞬間、ぎょっとした目でレジにいた同僚が見てきた。高校生の群れがカップラーメンの一つを手から溢れ落とした。雑誌コーナーにいたOLが口に手を当て何かが漏れ出すのを抑えている。

 

 何か服についているのか――自分の服を見渡すも、何もついていない。変な虫も、ナイフも。顔は家を出る前に確認した。食べかすや寝癖などついていなかった。

 

 不審な目を睨み返しながらスタッフルームへ入る――受話器を握りしめていた、店長がこちらを見てきた。眼鏡越しの目が見開かれる。

 

「どうしたんですか」

 

 電話を終えた彼に向き合う。どこか苛立ちを含んだ声が漏れた。返ってきた言葉は実に単純なものだった。

 

「――イトウ君が、刺されたって、知らないのか」

 

 

 

 

 出入り口付近にいた子どもを吹き飛ばして、コンビニから飛び出す。噴き出した汗は暑さによるものではない。身に纏っているTシャツは汗染みが酷いことだろう、だがそれに構うか。足が悲鳴を上げても、そのまま地面を蹴った。信号は何度も無視した。

 

 イトウ君――カナ。一日中彼女のことを拒否していたせいで、事態を理解することを脳が拒絶する。上手く働かない。死んだように床に転がり込んでいたせいで、脳が、上手く動かない。回転しない。

 

 辿り着いた彼女の家。小さなアパート。深夜に女性が一人で歩くには心細い道の角。パトカーのランプと黄色の規制線と野次馬の熱気が眩暈を誘った。くらりとブロック塀に倒れ込む。

 

 イトウと書かれた表札の下で、呆然と佇む男がいた。警察官が彼から事情聴取を行っている。彼をぼおっと見ている内に、ふと疑問が浮かんだ。何故今彼らは騒いでいるのか。

 

 カナが死んだのは日が昇る前だ。もうすぐで日付が変わる。もし朝にカナが死んでいること気付いていれば、こんなに野次馬はいない。こんなにパトカーは止まっていない。あの男――恐らくカナの彼氏は夜になるまで彼女の死に気付かなかったのか。

 

 酷い男だ、と鼻を鳴らす。野次馬の一人、中年の女性がこちらを見つめる。不審な目。規制線の前に仁王立ちする警察官に耳打ちする。顔色を変える警察官の顔。何故かこちらへやってくる。

 

「すみません、その服、どうされたんですか」

 

 服――自分の真っ赤なTシャツを見る。胸元から下は全て真っ赤な服。首元はところどころ散った赤い色。花弁――あの夢で見た、赤い花に似ていた。そこで、彼は気付く。

 

 何故、自分は、カナが朝に死んだことを、知っているんだろう。

 

 ぶつっと頭の中で音がした。あのパソコンが起動した音に似ていた。

 

『8月4日:はじめまして。私はアイ』

 

 カナは床に倒れていた。そこらじゅうに飛び散る血液と、胸に刺さったただ一つのナイフを取り除けば、モデルが写真撮影しているように見える光景だった。

 

 捜査官が「彼」の家に立ち入る。ごく普通の男の家。机の奥を掘り返しても、何も怪しいものは見当たらなかった。ただ一つ、画面が割れたパソコンが、机の上に鎮座していた。

 

「なんだこれ」

 

 白い手袋の上からキーボードを叩く。パスワードが設定されていないのは、それほど重要な情報を持っていないせいか。はたまた持ち主の管理能力が甘いだけか――そのパソコンは前者のようだった。

 

 開かれたメモ画面。日記らしき文が羅列してある。誰かと会話しているような形式。それに目を通していると、別の捜査官が声を上げた。

 

「や、懐かしいな」

 

「このパソコンがですか」

 

 首を傾げる。

 

「俺も同じ型のを持ってたんだよ。何年前だったけか。相当古いはずだ」

 

「そのようですね――ああ、そのパソコンに人工知能は入っていましたか」

 

 このパソコンの持ち主は人工知能と会話をしているようだった。ところどころ不自然な言葉。今時パソコンにそれが入っているのは珍しくはないが、この会話の相手はどこか古さが見られた。

 

「いや。人工知能を入れだしたのは五年前ぐらいからだろ。この型は十年も前のやつだ。会話できる人工知能なんて、金持ちの娯楽でしかなかったはずだ」

 

「じゃあこの会話相手ってのは一体――」

 

 「彼」は一人で暗い部屋の中佇む。部屋には格子。ちゃぶ台が一つ。部屋の隅で一人――いや、二人。

 

「×月×日:心配しなくていいわ。私が――アイが、何とかしてあげる。貴方は私なんだから、大丈夫。貴方は寝ているだけでいい。大丈夫よ、カナちゃんを殺したのは私だもの。貴方が責任を負う必要はない。だからそっと寝ていて。十年もしないで出られるわ」

 

『うん じゃあ任せる お休み ありがとう』

 

 目を閉じる。格子の前に男が一人。出ろ、と言われた。

 

「出るわ。もう朝なのね――おはよう」

 

 もう一人の「彼」が目を開く。女口調で、ふっと笑って。

 

 

 こんにちは。どらいのいんです。文化祭ぶりですね。

 これで今学期の、今学年の部誌は最後になります。小さい脳を捻り出して出てきたアイディアが二重人格の殺人事件なんて、どこか陳腐な気がしますが。ご了承ください。

 解説。アイは愛です。彼が求めた唯一の愛情。そしてIです。彼自身です。「彼」がパソコンで会話していたのは、すべて妄想です。もう一人の自分と交互にキーボードを叩いて、文字を打ち込んでいただけ。彼が知っていることは全てアイが知っている。

 アイはカナを殺しました。だけど途中で「彼」は気付きます。もうその時にはアイは「彼」と同化していました。これから訪れる罰に備えて。

 「彼」が再び目覚めると、カナを殺してから何年も経っているでしょう。アイが全て片付けてくれました。なので、「彼」は再び彼自身の人生を送るだけ。でも出所した彼に再びあのバイトが始めることが出来るのか、そんなことは知りませんが。

 以上です。一年間、有難うございました。来年もお会い出来たら会いましょう。