帰省
「トリック・オア・トリート〜!」
ガチャリと開いた扉の向こう、玄関先に立つ私を見て、久志は目を丸くした。顔を見るのは二ヶ月ぶりだが、少し背が伸びたような気がする。一瞬の沈黙の後、ため息を吐きながら弟は言った。
「おかえり、姉ちゃん。お菓子なら無いよ」
「お、悪戯して良いってこと?」
両手を構えてがおー、とやれば、久志はますます頭を抱えた。
「……取り敢えず、家入りなよ」
「はーい。ただいま」
「この格好どう?似合ってる?」
「うーん、姉ちゃんってさ、昔からなんか悪趣味なところあるよね」
「なにそれー、まるで私のセンスが悪いみたいに言っちゃってさ」
「実際そうでしょ」
ちょっと気合を入れたこの格好は、あまり弟のお気に召さなかったらしい。白いワンピースに飛び散るは真っ赤な血飛沫。なかなかリアリティあるし、良いと思ったんだけどな。目の前でひらひらさせてみても、久志の反応は素っ気ない。
「やっぱちょっと背伸びた?」
「先月の誕生日で十七になったし、その時測ったら五センチ伸びてた」
「うわ、並ばれた。来年は抜かれるかぁ」
手を洗ってリビングへ。どうやら弟は夕飯の支度中だったらしい。見慣れたはずのキッチンでも、目を凝らすと案外前と様子が変わっている。新しい鍋が増えていたり、昔から使っていたフライパンが無くなっていたり。コンロの上の鍋からは、スパイシーで美味しそうな香りが漂ってきた。
「夕飯、カレー?差し入れに卵買って来たけど、目玉焼きとか焼こうか?」
「……遅いよ。もう食べるところだし。姉ちゃん、料理下手なんだから座ってて」
癪なやつだ。小学生の頃にレンジで卵を温めようとして、爆発させたのはそっちじゃないか。あの時私も掃除に巻き込んだこと、忘れたとは言わせない。
「あれ、そういえばお父さんとお母さんは?」
「まだ仕事。今日中には帰ってこられなそうだって」
「マジかー。まあ、今回は諦めるかな。夏にも顔見たし」
「え、姉ちゃん夏来てたの」
「ほんのちょっとだけどね。あれ、会わなかったっけ」
カレーとご飯を皿によそって、リビングのテーブルにカチャリと置く。スプーンを探すのにやや苦労している間、久志は一言も喋らずに待っていた。折角の再会と言うのだから、話題の一つや二つくらい自分で見つけてほしいものだ。
「「いただきます」」
こうして家で食事をするのは、いつ以来だろうか。夏は両親も弟も、果ては親戚までもが家に居たけど、こんな風に私を含めて食事はしなかった。その時は文字通り顔だけ見て帰ったから、改めて言葉を交わすのも久しぶりだ。
「お、美味しいじゃん。自分だけで作ったの?」
「まあ、野菜とルー煮ただけだし。これくらいじゃ失敗はしないよ」
「へー、上達したね」
「ありがと。……って、姉ちゃん服、跳ねてる跳ねてる」
「うわっ、慣れない白なんて着るんじゃなかったか」
赤い染みに点々と茶色が飛んで、ちょっと間抜けな感じになってしまった。まあ、他の誰に見せるでもないし良いか。早々に諦めて食事を再開する。
スプーンですくって、一口。もう一口。気がつけば、もうほとんど一皿食べ切ってしまった。うん、やっぱり美味しい。敢えて言えば野菜はもう少し固くても良い気がするけど、それは私個人の好みの問題だろう。何でも噛みごたえのあるものが好物な私と違って、弟はやわらかいのが好きだったから。
「姉ちゃんって大食いだよな……」
「失礼な。美味しいから食べてんの。あー、毎日食べられたらいいのに」
「……」
私が二杯目も平らげようとする頃、久志は席を立って冷蔵庫からペットボトルを取り出した。爽やかな音と共に蓋を開け、二人分のコップに注ぐ。
「なんだ、ジンジャーエールか。私コーラの方が好きなんだけど」
「あるにはあるけど、冷えてないんだよな。文句言うなら何もやらない」
「嘘嘘ごめんなさい久志さま」
「あー、美味しかったー。ごちそうさま。上行く?」
「そうするか」
食事を終えて一息つき、久志の皿洗いが終わったところでいざ二階へ。階段の七段目が軋むのは、私が生まれてこの家に引っ越して来た時から十八年間、全く変わっていないらしい。
「お邪魔しまーす。うわ、この部屋も全然変わんないね」
やって来たのは弟の部屋。相変わらず面白みのない、最低限の家具くらいしか置かれていない部屋だ。でも、棚に並んだ本は少し難しそうなものになってるかも。ベッドの下を覗こうとした頭を叩かれて、渋々久志の隣に座る。こうやって並んで座って、よくゲームで対戦したっけ。あの頃は全然余裕で勝ってたけど、今やったら負けるかな。
「ねえ、久しぶりにゲームやらない?まだあるかなー、ほら、あの3DSのやつ」
「いいよ。多分まだ姉ちゃんの部屋にあると思うし」
「よっしゃ。なら取ってくるわ」
自分のゲーム機を探す弟を尻目に部屋を出て、目指すのは隣の部屋。ドアノブは、思っていたより随分すんなりと回った。
入って、パチン、と電気をつける。机の上に目をやって、いつかの宿題がそのままにしてあるのを見つけてそっと視線を逸らした。いっそ片付けてくれてもいいのに。自分で何処かにやってしまおうかとも思ったが、これ以上久志を待たせるのも申し訳ないのでゲーム機を探し始める。きっといつもの定位置、二段目の引き出しの中。ほら、やっぱりあった。カセットもちゃんと入ってる。結局机の上はそのままに、電気を消して部屋を出た。
「あったよー」
「こっちもあった。でも電池切れ」
「うわ、本当だ。充電しよ」
ゲーム機にコードを挿して、オレンジ色のランプが点くのを確認。これで待てば良いはずだ。
「終わるまで何しよっかー」
「……姉ちゃんさ」
「どうしたよ?」
「何でそんな格好してんの?」
振り返った先の弟の目は、まるで小さい時みたいに真っ赤だった。
怒らせてしまったかな。跳ねたカレー跡を誤魔化しながら、私は慌てて言い繕う。
「だ、だってハロウィンだし、折角なら怖がらせたいなーって思ったから……あっ、もしかして怖すぎた?ごめんごめん、だけど……」
「違うんだよ。そうじゃなくてさ。その、俺の言いたいのはさ、」
「……なに?」
「毎日、居てくれてればいいのに。カレーくらいなら、毎日、作るし。卵なんて買いに行かなくても、俺が全部やるし。コーラだって冷やしとく。だからさ、ずっと……」
堰を切ったように喋り出した弟の肩にそっと手を置く。まったく、本当に久志は優しいんだから。姉冥利に尽きるってものだ。でも、
「……ごめん」
俯いていた久志の顔が、弾かれたように上がった。そんな表情しないでよ。いきたくなくなっちゃうから。
「……どうしても?」
「うん」
「そっか、そうだよな。……悪かった」
それから私達は、何年前かと同じようにゲームをした。それはもう前と全く変わらず、私が圧勝して、負けず嫌いな弟は何度も何度も再戦をせがんで。最後まで私が勝ち続けるもんだから、弟は最後にはべそかきながら操作してるくらいで。あんまり笑ったもんだから私もつい涙が出て。楽しかったよ。本当に。
「そろそろ、いかなきゃ」
ゲーム機を閉じて立ち上がると、久志はまた寂しそうな顔をした。
「あと二日くらい居てもいいんじゃないの?」
「日本ではぜんっぜん浸透してないからね」
「それならお盆こそ、もっと居てくれればよかったのに」
どうやら、二ヶ月前のことをまだ根に持っているらしい。たしかに、あの時は会話もなかったか。もう問題ないと思ってたのに、顔を見たらやっぱり余裕なくなっちゃったんだった。今日はもう大丈夫だけどさ。まあ、そんな情けない姿を久志には知られたくないし、適当にはぐらかすことにしよう。
「あれさ、牛と馬の順番間違えちゃったんだよね。来年から気をつける」
「嘘だろ。もう二度と作ってやんないから」
「えー、お願い。今日だって、ジャック・オ・ランタンの灯のお陰で来られたのに。あと美味しかったし」
「それ後半が本命なんじゃ……。あーもう、分かったよ。もっと立派なの作るから、次もちゃんと帰ってこいよ」
「もちろん!」
玄関を出ようとしたところで、最後にもう一度だけ振り返る。お盆や今日以外にも、また帰れるといいんだけど。
「あ、ちょっと待って。」
玄関のドアを開けようとした私を、久志が呼び止めた。差し出されたのは、コーラ味のグミ。噛みごたえ抜群のハードタイプ。
「姉ちゃん、こういうの好きだったろ。持っていきなよ」
「……お菓子あんじゃん」
「あー、降参。わかったわかった」
「あともっと普通の格好で着て。それに差し入れもいらない。それと……」
「わかったってば」
グミを受け取って、今度こそ家を出る。久志は笑っていた。また泣いてぐずるかと思ったのに。
……変わらない変わらないと思っていたけど、本当は変わっていたんだな。
久志は成長している。背は伸びたし、美味しいご飯も作れるし、気遣いなんてできるようになるし。これからも、もっと変わっていくんだろう。あの日、目玉焼きを作ろうとして卵を買いに行って、そのまま車に轢かれて帰らなかった、享年十七の私とは違う。
「「トリック・オア・トリート!」」
ふと聞こえてきた、賑やかな声の方に自然と顔が向く。まだ小学生くらいの姉弟が、お菓子を詰め込んだ籠を片手に楽しそうに駆けて行った。姉の方はつばの大きな魔女の帽子を被り、弟の方は包帯をぐるぐる巻きにしている。元々外国から伝わった行事だし、やっぱり洋風の仮装がメジャーみたいだ。でも、今日はただお菓子をもらえるお祭りの日じゃないってこと、知ってる?
十月三十一日。ハロウィーン。ジャック・オ・ランタンの灯りを頼りに、霊が家族の元に帰る日。日本ではあまり有名じゃないけどね。
今度はお父さんとお母さんにも、ゆっくり会いたいな。玄関先に置かれたジャック・オ・ランタンをそっと撫でる。少し汚してしまったワンピースを、白装束のようにはためかせて一歩踏み出した。