都立武蔵文芸部 デジタル部誌サイト

都立武蔵文芸部の部誌のデジタルVerです。個々の作品を掲載します。予告なく作品の変更・削除を行う可能性があります。ご了承ください。

like you

「またあとで」

「ああ、うん」

 最後まで残ってくれていた裏切り者がいなくなってしまえば、一人の為にしてはいささか照明が明るすぎる教室には、俺だけが取り残されていた。

 先程までやたらとよく動いていた口元はなりを潜め、俺はただひたすらに、シャーペンの先端を日誌の欄内で走らせる。

 「九月七日、快晴」。名前は「菊月」だけでいいか。

 中学校という組織がある以上、各クラス、一日に一人は日直が必要だ。今日はその役割を果たさなくてはならない人が、俺だっただけのこと。

 いつもなら誰かしらの気配で満たされているはずの教室には、紙と芯が擦れる、かすかな音だけが響いていた。

 ふいにその音が止み、辺りがささやかな風と陽だまりに包まれる。

………代数、なにしたっけ」

 行くあてのない言葉がもれたが、当然誰かに拾われることはない。訪れた静寂の中に、淡く溶けて消えてなくなっていった。

こんなことなら、授業中の空き時間にでも、めんどくさがらずに書いておけばよかった。

「はぁ〜あ」

 数時間前に既に予想がついていた後悔をなぞり、何もかもがひどく億劫になってきてしまった。シャーペンを邪魔にならない位置に転がしておき、背中を丸めて、机上の日誌に体重をもたせかける。

 紙の柔らかさと冷たさが、案外頬に心地いい。頭と腕の骨がぶつかりあって痛いが、机と直に接するよりかは支障がないだろう。目を瞑ると、ベッドの中と寸分たがわない、鮮やかな紅い暗闇が視界を支配した。

 少しだけ開けられた窓から吹き込む風が、俺の鼓膜を優しくなぜていく。九月のくせして夏のような眩しくも壊れやすい日差しが、今だけは都合が良かった。

 しばらくの間そのままくつろいでいたが、眠気の代わりに着々と降り積もっていく虚しさに耐えかねて、あくび混じりのため息をつきながらも顔を上げる。

 しかしながら、別に日誌に書くべき内容を思い出した、という訳でもなく、頭部の重さから解放されたはずの右の指先はただ、気まぐれに空気を掴んでは逃がしてを繰り返すだけであった。

————うあ、めんど。

 今度は声に出さなかった。

 一度「顔をあげて日誌を書こうとしてみる」という偉業を達してしまったせいで、本命の日誌が何一つ進んでいない。きっともう一度書き始めてみればいとも簡単に書けるのだろうが、それが出来ないから日誌はめんどくさいのである。

 他のクラスメイトが書いた日誌でも読めばやる気が湧くかも、とも思ってページの端に指先をかけたが、それは最後のお楽しみに取っておきたかった。となると、やはり日誌を書く前に黒板を掃除しておくのが妥当なのだろう。

 そう結論づけると、重い腰を引きずりあげ、六限の授業の痕跡が残っている黒板の前に立つ。

 後にした方が良いのは分かっているが、気が向いたのだから仕方がない。先に溝の掃除を済ませると、一番近くにあった黒板消しを利き手に取る。

 我がクラスを担当する幾何の教師は背が高いので、俺ほどの身長を持ってしてでも、黒板消しを縦向きにしなければ上の方まで消しきれない。指先をフルに使って黒板消しを持ち上げ、動かしていると、段々と作業を続行するのも面倒くさくなってきた。

 これが水瀬だったらどうしていたのか、想像にかたくない。あいつはまだ掃除当番が残っている間に仕事を終わらせてしまうから、きっと文句を言いつつ、恨みがましそうに背の高いやつに頼むのだろう。それか、精一杯背伸びをして、意地でも自分でやろうとするか。

 そこまで考えて、俺は馬鹿らしくも笑ってしまった。水瀬と俺で食べているものや生活習慣はそうそう変わらないのに、ここまで身長に差があるのはどうしてなのだろう。まあ、どんな原因であろうと、俺が水瀬をいじる口実になってくれているのだからいいか。

 頭の中に湧いてでたメロディーを意味もなく口ずさむ。まるで耳元で囁かれているかのように、自分の声で紡がれていく旋律が、気持ちよく脳に響いた。

 その延長で、これではいけないとは思いつつも、日誌の存在は思考の隅へ追いやられていく。それでも順調に証明の解説を元の濃紺に溶け込ませている黒板消しだったが、仕事も中盤に差し掛かった辺りで、突如として何かをためらうようにキュ、と動きが止まった。

……

 その原因が黒板に乗せられたチョークの粉末の連なりにあることは、俺自身が一番よく理解していた。

 ぼんやりと、視界が狭まる。

 

 終学活で水瀬が書いた、今日の掃除当番の番号だった。認識すると同時に、音声が脳内にふわりと蘇ってくる。

「惜しい。だったら、なんかいい感じの数列になったんだけどな」

「俺、掃除すんの嫌なんだけど。って書くなよ」

「もう、そんなの分かってるよ」

 その時点では日直の仕事をすっかり忘れていたから、まだ気楽に掃除当番をあわれむことができた。ざまあみやがれ、とでも言うように日直日誌を目の前に差し出してきた水瀬には、理不尽な怒りしか湧いてこない。

 思い返せば、水瀬は昔からそういうやつだった。

 そっと左手を黒板に添えた。一瞬だけその冷たさに驚いた指先を微かに動かすだけで、摩擦によって発生した音が五つに重なり、落ちていく。体温に浸食された黒板と指先を共有していると、あたかも自分と手を合わせているかのような錯覚を覚えた。

 焦点の合わない頭で考える。

 あいつの字は、雑だ。

 良く言えば達筆、悪く言えば乱雑。ひらがなは漢字に比べて大きすぎるし、特に「とめ」がなにかと蔑ろにされている。何より、字一つひとつのバランスが悪い。

 だけど、読みやすい。全体的に見れば整っているほう、だとも思う。数字だと分かりにくいけれど、たまに見るプリントに連ねられた字は、けっこうキレイだったりするのだ。まあ、近くで見ると途端に化けの皮が剥がれ落ちるが。

 宛もなく彷徨っていた思考が、ストンと着地する。

————まるで、あいつ自身みたいな字だ。

「ふぅ…………あ、」

 思い出した。今日やったのは、素因数分解を利用する式の計算だ。

 忘れないうちにと黒板消しを走らせて、付着した粉を即座に吸い取らせる。雑に終わらせたのでまだ白く霞んでいるが、それくらいなら先生も許してくれるだろう。

 席に戻って日誌を書き出せばあとは簡単で、メモ欄は適当な今日の反省で埋めてしまう。最後にこの冊子を先生に提出すれば、この面倒な業務はしばらくやらずに済むのだ。抱えていた課題を終わらせることが出来た達成感で、心なしか気分が高揚しているのが分かった。

 職員室を尋ねる前に、最後の後片付けをしながら記憶をたどる。

 そういえば、今日は部活がないから水瀬たちを図書室で待たせているんだった。わざわざ待ってやっているのに今まで忘れていたとはどういうことだ、と文句を言われそうな気もするが、そこに関してはお互い様だろう。そもそも、こっちが言わなければ気づかれることでもないし。

 あとは、と声に出さずに呟く。日誌を読むのは、またの機会でいいか。元からそんなに興味もなかったから。

「よし、終わった〜」

 教室を出ようとしたところで、吹き込んできた風に全身をなぶられて、窓を一つだけ閉め忘れていたことに気が付く。邪魔な机を避けながら近づいていくと、柔らかな風越しに見えた空は、うざいくらいに秋らしく澄みわたっていた。

 

 

 

 

あとがき

 

 初めての小説です。〝蒼〟な雰囲気を目指して書きました。よろしくお願いします。