都立武蔵文芸部 デジタル部誌サイト

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暗闇

太陽が昇る。
目覚ましを止める。
起きる。歯を磨いて顔を洗う。5枚切りの食パンをオーブントースターに突っ込む。目玉焼きを作る。黄身が思ったより硬くなった。目玉焼きトーストを黙々と食べた後、制服を着て登校する。
なけなしのバイト代で買ったスポーティな自転車で、自動車道を飛ぶように走る。いつもの信号で友達と落ち合う。
登校したらやる気なく授業を受ける。あの子に一瞥を投げたら目が合って、慌てて黒板に目を引き戻す。
放課後をむかえる。友達と公園に寄る。友達が飲み物を買いに行く。
そのとき、本を読んでいるあの子を見つけた。木陰の下の木製のベンチに一人で座っている。
気づかないふりをした。でも。彼女の手にする文庫本に木漏れ日が揺れている。
その頭上に青々と歯を生い茂らせるのは、この公園のシンボルツリーでもある桜だ。
そのうち友達は戻ってきて、その場を離れざるを得なかった。
家に帰るとすぐ課題に取りかかる。必需性がないのならとっくの昔にテレビでも見ているのだろうが、そういうわけにもいかない。
夕飯を食べ、風呂に入り、歯を磨き、スマホのアラームを確認して寝る。
繰り返される日々。
「どうせお前の定期考査の学年順位はワースト一桁なんだから、課題やんなくたって成績はさほど変わらんだろ」。アイツの言葉がよみがえる。
─くそ、藤木のやつ。今に見てろよ。
─あ、そういえば明日俺日直だ。めんどくさ。
─でもその代わり、代数の授業がある。頑張れ俺!!
そのうち、モヤモヤとした白い霧がだんだん脳の中を漂い始めた。おかげで、頭の中に映像を映し出すのが難しくなってきた。未だに思考の片隅に残っているのは、ふかふかとしたベッドの心地よさと、今日完成させた課題の出来の良さに対する満足感のみだ。
うとうとし始めてから数分後のことだ。積もりに積もった眠気をかき分け、意識の中に何らかの違和感が割り込んできた。

─今眠いんだよ…
無意識の境界へと違和感を押し出そうとするが、それは強くなる一方だ。
一度は立ち込めた霧もさすがに晴れてしまい、いやいやながら目を開けた。
一瞬、目が見えなくなったのかと思った。辺り一面が黒一色で塗りつぶされているのだ。
これはどうしたことかと目を凝らしたが、いくら目を細めても自分自身の体以外に見えるものは何一つない。
そして、違和感の正体を突き止めた。仰向けの体を支えるのはベッドではなく空気、つまり浮いているのだ。体の向きを変えようとしてもうまくいかず、ただ暗闇の思うがままに落ちていくだけ。…そう、ゆっくりと落下している。
─冷静に。そうだ。感情を抑えるんだ。
自分にそう言い聞かせた。ついこの前に完読したミステリー小説の登場人物が、そうすることで危機を乗り切ったのだ。
とはいえ、この謎すぎる状況の打開策は全く思い浮かばない。無意味だとは知りつつもとりあえず手足をばたつかせてみたが、当然ながら何の変化もない。
そうしている間に、心なしか落下スピードが速くなっているようだ。「心なしか」とは言うが、その心の片隅では、それが自分を落ち着かせるためのスカスカな隠れみのだとわかっている。
たとえマッハを超えるスピードでこの底なしの空間に落ちていったとしても、そこに着地点があるのかどうかすらわからない。
一秒後に何が起きるか、だれが予想できるだろう?落下スピードがみじんもゆずることなく加速していく中であれこれと思考を巡らせるが、なす術のない俺はそのまま落ちていった。
気が付いた途端、まぶたの向こうで強烈な閃光がきらめいているのがわかった。ついさっきまでいたように感じられる暗闇の世界とはまるで正反対だ。どれほどの間気を失っていたのだろう。
まだ目を開かずに、光の発信源に背を向けるように体を転がした。体の下の何かは、フワフワとモフモフとヒンヤリを掛け合わせたような、不思議な肌触りだ。
─あれ…ちゃんと何かの上に載っているし、それに、体にも自由がある。
そよ風に揺れる前髪がくすぐったくなった。横たわったまま右手で髪をかき分け、そして
目を開けた。
今度は、冷静でいようなどとしている場合ではなかった。
俺を乗せている白い何かは、数十センチ先で途切れていた。その下を垣間見ると、はるか下に立ち並ぶ建物と道路が見えた。直接的に言って「信じられない」光景に混乱した。
噓だろ!?ということは、今身をゆだねているのも雲だ。ここは上空に浮かぶ雲の上。どうしてしまったのか、俺はいつの間にか空でも飛んでしまったらしい。
手を見るが、大丈夫。これは人間の手だ。衝動的に背中を探り、見知らぬ翼が確かにくっついていないことを確かめた。
全く状況が理解できない。思考回路がショートしてしまったせいで何かを考えることができなかった。
地平線をぼーっと見つめながら手足のけいれんがおさまるのを待つと、注意深く雲のへり近くに手をついて下を覗き込んだ。よくそんなことができたものだと自分でそう思った。
毛糸ほどの大通りの近くを、針でつついた穴よりもさらに小さな黒い点がうごめいている。目に見えるか見えないかのぎりぎりだ。建物は、ものすごく小さな積み木を並べたみたいだ。
ふとして、俺は驚いた。

並んでいる建物どれもこれも、見覚えがある。そうだ、ほとんど全部見たことがある!あそこにあるのが学校で、あれはいつもの公園。ということは…。道をたどると、やっぱり俺の家があった。
目の端に動くものをとらえたのは、その時だった。サッと振り向くと、正面をこちらに向けてやってくる飛行機が見えた。
足がすくんだ。動けない。飛行機は見る見るうちにさらに大きくなる。
だが、俺は救われたのだった。
雲のへりにかけていた手が滑り、前につんのめって雲から落ちた。迫りくる飛行機から逃げなければならないと知りつつも、自分の意志で実行するのは不可能だっただろう。
声にならない悲鳴を上げながら、回転する景色の中に、冷たい鋼鉄の機体の片脇にかき消される雲を見た。そして次に町が近づいてくる。
毛糸だった大通りは指になった。人の頭はシャー芯の太さ。積み木はレンガに変わった。
やがて、着地点がはっきりしてきた。…公園だ。
公園の中央広場。中央広場の桜の木付近。桜の木の上。そして木の上の…
バスッ。
音を立てて落ちたのは、木に引っかかったプラスチック製の凧の上だった。
あっという間だった。なんて幸運なのだろう。節々が痛いが、おかげで枝に体中を引き裂かれずに済んだのだ。
─凧の上?
おかしい。おかしいおかしい。凧って普通、体よりも小さいだろ。何だこれは。逆「ジャックと豆の木」か?
確実にこれは凧だ。イカの頭みたいな三角形をした凧。俺が小さくなったのか、それともこの世界がデカいのか。
まあとりあえず成り行きに任せておけば何とかなるだろう。今はいろいろありすぎて、それどころじゃない。
─アッッブネー…。
苦笑いをしながら思った。
─装備なしのスカイダイビングだぜ…
体をもぞもぞと動かして、けばけばしいショッキングピンクの凧の上にあぐらをかいた。
次なる問題は、どうやってここから降りるかだ。
「ママぁ、たっくんの、たっくんのたこ、きにひっかかっちゃったよ?」下のほうから、
小さな男の子の声が聞こえる。指さして、こちらを見上げている。
─たっくんの凧、か…。
足と足の間から、ビニール凧を見つめた。風にあおられて枝がしなると、凧がカサカサと音を立てる。木の葉も一緒にさわさわと音を立てる。空気を肺に大きく吸い込む。酸素に溶け込んでいたセミの声が、体の隅々に染み渡る。
─よし、ひらめいたゼ。
凧から慎重に下りて、少し太い枝にちょうど良いくぼみを見つけ、そこにバランスよく立った。凧を持ち上げてみると、上に座っているよりも一回り大きく見える。
凧の形を支えている棒の部分をしっかりと握った。予期せぬタイミングで吹き飛ばされないよう、凧を風向きに対して平行にして待った。
時々そよそよと弱い風が吹く。思ったよりも枝の縦揺れが激しい。何度か振り落とされそうになったが、何とか踏みとどまった。
その時はきた。
─今だ!
平行から垂直へ。10分に一度の強風を、凧はその大きな体に受け止めた。上へ跳ね上がった枝の力も加担して、体は大きく飛び上がった。思っていたより自分の体重が軽く、このまま地面に足がつくことはないのではないかと少し不安になった。が、凧は風に乗ってゆっくりと降下した。飛行機になったか、背中に翼を授かったみたいだ。
ほんの一瞬のフライトは終わりをつげ、地面に軟着陸した。
すぐさま凧を投げ捨て、急いで茂みへと走った。何やらおかしな物体が空から降ってきたことがバレないようにと祈りながら。
時々大根みたいな足をよけながら、やっとのことで植え込みにたどり着いた。さっとその裏に隠れ、葉と葉の間から人につけられていないか伺った。各々が、何事もなかったかのように歩き去っていく。
「ママぁ、みて。たっくんのたこ!」
─やれやれ。あんな状況でよく見つからなかったな。
その時、何かが地面を踏みしめる音がして俺は振り返った。
薄暗い木陰の中、猫が寝転がっている。
─しめた。
どちらにしろ、ここを出なければならないのだ。
足音を立てないよう、忍び足でゆっくり近づく。気づかれないよう、背中のほうへ遠回りをした。呼吸に合わせて、白い毛並みが上下に波打つ…
猫の背中に飛びついた。猫は「ニ゙ャッ」と鳴いて跳ね起き、途端に猛スピードで駆け出した。猫が雑草をかき分けると、いろいろな虫が逃げていった。バッタ、アリ、クモ、チョウ、毛虫…毛虫!?
猫はそのうち飛び上がり、木と木の間で三角飛びをして背の高いブロック塀の上に着地した。かと思えば今度は飛び降り、首がガクンと揺れた。今はつかまっているだけで精いっぱいだ。
次のステージは住宅街だ。どれも垂直に交わる単調な道を、猫は器用にも次々と曲がって行った。時にはブロック塀に飛び乗ったり飛び降りたりした──そのたびに俺は頭を猫の背中に打ち付けた。一時は出合頭で自転車にひかれそうになり、のどから心臓が飛び出すかと思ったほどだ。
やがて猫は人の多い大通り沿いに出た。俺は猫の毛の束を今までよりさらに強く握りしめた。道行く人の中には「キャッ」っと悲鳴を上げる人もいた。もしかしたらその原因は猫ではないかもしれないが。
大通りの信号が青になったのが見えた。猫はなおも人にぶつかりそうになりながら走っていたが、何を思ったのか減速し始めた。
─いいぞ、降りるなら今がチャンスだ。
そう感じた次の瞬間、猫は急カーブして大通りに飛び出した。
「おい!」俺は思わず叫んだ。それに重ねるようにしてトラックがクラクションを鳴らす。
─死ぬ!!
その予感が外れて本当に良かった。猫はすんでのところで巨大で真っ黒なタイヤから逃れた。
猫がガードレールをすり抜けるや否や、しがみつくのをやめた。俺は歩道に転がり、猫はそのままどこかに走り去っていった。
急いで起き上がり、踏みつぶされないうちに道の端によって座り込んだ。体の節々が抗議の悲鳴を上げているが、それ以上に腕の握力が麻痺している。
─あんな狂ったもんに──
「乗ってられるかっての」俺はつぶやいた。
信号が点滅し、赤になった。2台の自転車が風を取り巻いて走ってくると、俺の前で止まった。「ほらなぁ。わたれなかっただろ」…ん?「いや、お前を待つために手加減してなきゃわたれたね」聞きなれた声がそう断言する。並んで信号待ちをする2台の自転車の影は、まだ帰ってきたばかりの太陽の前に長く伸びている。
「お前、いつも漕ぐの遅いんだよな。チャリがもったいねぇよ」その声は。
「藤木…」口の中でもごもご言った。
「わざわざ急ぐ必要もないんだから、ゆっくり行きゃいいじゃん」
そして反論しているのは、自分だった。会話にさえ覚えがあった。
もう一人の自分を前に、俺は目を釘付けにせざるを得なかった。今までがすでにあり得ないことだらけだったからか、思考にやけに集中できた。
─どうなってるんだ?これは夢か?夢じゃなかったらこれは何だ?過去のことなのか?俺がおかしいのか?それとも周りの世界が?
その代わり、心境は崩壊寸前だった。
「お、もうちょっとで青だぞ」藤木の声に、はっと我に帰った。確か今の俺たちは学校に向かってるはずだ。自転車につかまれば、安全な場所にひとまず移動できるかもしれない。移動中だって、気のどうかした猫に乗るよりかは少なくともマシに違いない。
俺が乗っているほうの自転車に駆け寄った。動き出した自転車を必死に追いかけ、何とかスタンドの部分にしがみついた。
途端に風が吹きつけた。猫のように毛が生えていないから、つかまりにくい。
自転車がガタっとはねた。油断していたせいで振り落とされそうになり、全身で鉄の棒にはりついた。
1年後──実際には5分後なのだが──自転車はようやく目的地に到着した。巨人のごとき俺のスラックスの裾に揺られながら、玄関口まで引っ付き虫のようについていった。
同じように校舎へと歩く見知った顔を順に眺めた。
─やっぱりおかしいよな。こんなに人目が多いのに、まだ見つからないなんて。
俺が友達に話しかけられて足止めを食らっている間──やはりこのシーンにも覚えがあった
──スラックス、シャツの順に自分の体を這い上った。それでも他人に見つかることはない。
ついに肩の上に立った。「俺、先に行ってるからな」という藤木の声に、ビクッとして振り返る。俺は肩の上にいるというのに、当の本人でさえ気づきもしない。きっと重さなんかも感じないんだ。
─じゃあ、猫はどうして?
俺は少し考えた。詳細は分からないが、「ああ、俺が毛を引っ張ったりしたからだ」と勝手に思いつき、落とし前を付けた。
俺がまた歩き出し、ぐわんとゆれた。「おっと、」あれほどのことの後だから、とっさに首につかまることなどたやすい。声を出しても気づく気配はない。
目線の位置はほぼ通常と同じ高さに戻った。自分は何もしなくたって、こうして方にのってさえいればもう一人の俺が歩いて、しゃべる。
─いいじゃないか…きょう一日はこうしてしのごう。
チャイムが鳴ると、恒例の授業が始まる。昨日も聞いた同じ話を、復習のつもりで聞き流す。窓枠の中に雲が現れては消えてゆくのを眺めながら…。
大きなほうの俺が静かに首を回した。横目に探っているのは、すっきりと見やすそうなノートにメモを取るあの子の姿。数秒の間、その姿に見入っていた。その子はとったメモを吹き出しで囲むと、こちらを向いた。ただでさえつかまりにくい肩を揺らして、何事もなかったかのように黒板に向き直る。あの子はというと、ほんの少し笑みを浮かべながら黒板の文字を映し始めたのだった。
昼食の時間になった。俺は机の上で、もう1人の俺が弁当をほどくのを待ち構えていた。

この2時間というもの、どんなにこの瞬間を待ち焦がれたものか。何しろ今日は朝から何一つ食べていないし、その割には、激しすぎるというほど体を動かしたのだから。
コンビニのバターロールをちぎると、弁当箱の後ろに隠れて食べ始めた。なぜなら、もしかすると宙に浮くパンくずが見えるかもしれないからだ。
2人目の俺がまたパンを置くのを待って、またパンをちぎった。
─アッ、そうか!だから昨日、やけにパンが小さく感じたんだ!
放課後。自転車にまたがりながら、「なあ、公園行こうぜ」と藤木。同じ小説を連続で2回読むみたいに、昨日をもう一度再生するようだ。「おう」
いつも通り人の少ない北口から、細い並木道へ自転車を押していく。
「やっぱいいよな、ここ」俺ののどが響いた。木が作る屋根の間から、キラキラと陽光がのぞく。「中央広場行くか」
「それ以外ないし」
広場に出ると木のアーチは途切れ、直射日光がじりじりと肌を焼いた。「相変わらず暑いよな、まったく」
「俺飲み物買ってくるよ」
「あざす」
藤木は自販機へと歩いて行った。大きな俺は、シンボルツリーへと自転車をおそうとした。
「あ」あの子がいた。少し涼しい風が吹いた。大きな俺は、本を読むあの子を無表情に見つめている。
─告れ!告れよ!
念じても、その目はひたと一点を見続けている。
─おい、今しかないぞ…
「なあ」振り返ると、藤木が反対の肩をたたいていた。もしたたいたのがこっちの肩だったら、危ないところだった。「なに見てんだ」
「ああ、なんでも」一緒に俺も答えてしまった。「休憩室で飲もうぜ、暑いよ」藤木に言われ、大きな俺は自転車の向きを変えた。
家に帰れば、待ち受けるのは課題だ。俺が課題をやり進めるのを見守り、間違った時はじた。もっとも、何度かしかそれには気づかないのだが。
夕飯も昼食と同じように少しくすねて食べ、風呂の片隅でははねてくる水を浴びた。
ベッドに大きな俺が寝転ぶと、俺もその枕元に身を横たえた。こんな日が何日続くのか知らないが、今日のようにやっていくよりほかない。俺に背を向けて幸せそうにまどろむ俺の姿がうらやましかった。
太陽が昇る。
目覚ましを止める。
起きる。歯を磨いて顔を洗う。
鏡に映る自分の顔を見た。ふと肩のことが気になった。特に何も変わったことはないが、なんだか世界が小さく見える。それに、昨日の夜は少し長かったような気がする…。まあ、いいか。
5枚切りの食パンをオーブントースターに突っ込む。目玉焼きを作る。目玉焼きトーストを黙々と食べた後、制服を着て登校する。